10月24日
最近なんとなく反社会的なのは,日本社会に対する希望を失ったからです。
希望なんて最初からなかったのかもしれないけれど,希望を失った理由が具体的にわかってしまったから,いよいよ社会というものがどうでもよくなってきた。僕が社会を突き放したところで社会は僕を突き放しすらしないのだけれど,当然それ自体もどうでもよい。以下は,gamayauber 氏の短文の読書感想文みたいなものです。
僕が自由という概念を知ったのは,大学に入ってからでした。それ以前の僕は,今思うと,自由の存在を知らなかったのでした。そして最近になって,自由というものが何なのかが分かった気がします。
箱の中にいる人間は,自分が箱の中にいることを知りません。国家による統制の中にいる人間には,たぶん上述の短文を読んでも何を言っているのか分からないのだろうと思います。だから日本語であのような文章が書かれていることは異常な事態でもあります。箱の中にいる人間には分からないと思いますが,日本人の頭の中というのは国家によって厳重に統制されています。具体的に言うと,個々の人間として意志を発揮すべき国民ひとりひとりを社会の側の色に染め抜
かれている状態にあります。
具体例を挙げれば切りが無いし,どうせ挙げたところで日本語で書いてもしかたがないので,時間の節約のため省きます。
自分の話をしましょう。何度か Internet 上に書いたことがありますが,3・4歳児のころ通っていた幼稚園では他の園児と喋った記憶がありません。ずっと部屋の中で絵本を読んでいて,あとは砂場で砂の中から湿度によって固まった砂塊を探す遊びをしていました。親によると,絵が描けない子供だったとのことです。その頃までは自由に生きていたのだと思う。
文部省の統制下に入ると,自由は失われ,体制に組み込まれました。具体的に言うと,絵を描く時間は絵を書かねばならなくなった。教科書なんて買って数日で読み終わるのに,毎日椅子に座らされてつまらない話を聞かせられることになった。矯正みたいなものだったわけです。
絵を描けず,他の園児と関わろうとしない状況は,病気だということにすればいくらでも病気にすることができるのだろうけれども,それは差異に名前を付けて常との区別を設けること,すなわち異常を創造することに他ならないので,そのような思想(あるいは常という体制)に組み込まれることは避けます。そんなもの僕から見れば,微積分を理解できない人間や英語で外国人と会話できない人間は脳機能の発達が止まった白痴,あるいは怠惰に染まった愚者にしか見えないのと同じことです。
もう少し環境が良ければ……現代のように Internet 上で大学の講義が受けられる状況にあれば,あるいは家に大量の学術書があれば,もっと違う子供時代があっただろう,と時々憾みに思いますが,終わったことは仕方が無い。とにかく一日中スーパーファミコンで遊んで時間を潰すのみでした。
中学に入ると,今度は「運動部に入部しなければならない」という軍隊的な矯正に曝されました。その頃には Internet を始めていて,HTML, CSS, Perl, Visual Basic などで遊んでいましたが,Linux に至ることは遂にありませんでした。
状況が変わったのは,高校に入ってからでした。最初に受けた模試の総合成績が全国 16 位だった。多分,このとき初めて自信というものが持てた,あるいは自分の存在が自分によって確立されたのでしょう。どうやらこの(中学校までの)暗澹たる世界から脱出できるらしい,というかそもそも,その世界にとって僕は異常な,同時に僕にとってその社会は異常な,ものだったらしい,ということに気づいた。そして自我が確立された結果として,学校という体制に対して反発するようになった。最終的には,自分にとって高校を卒業することは必要ではなく,つまり高校というものは必要ではないのだから別に高校に行かなくてもよいし高校教師の言うことに従わなくてもよい,ということに気づきます。そして「自分が納得する主張には従うけれどもそうでなければ従わない」という(今思うと当たり前の)振る舞いをするようになりました。典型的な例が「僕に服装指導をするなら退学します」騒動でした。これが僕の中での自由の萌芽だったのでしょう。東京の人(たとえば高橋桃子さんのような)にとってこれは当たり前のことだったのかもしれないけれども。
「高校を卒業することは必要ではない」というのは,一つには東大に合格するためには必要ではなくなった,ということである。高校の授業は自分の役には立たず,あとは独学でも東京大学に合格できる目処が立ったのだ。もう一つは,高校以外の場での人間関係が確立されたから,高校での人間関係を全部切り捨てても良くなったということもある。(ちなみに中学までの人間関係は完全に切り捨てており,卒業以来12年間誰とも会っていない(見かけても気づかないふりをしている)。)つまり“Internet 上の”,“現実”とは別の人間関係であった。結局,それら 2 点を除けば高校機構と僕個人とは対等の関係になり,そして圧倒的に僕の方が強い,ということに気づいたのである。最近,「Internet からの自由」という概念について考えています。「Internet の自由」は日本では事実上保障されている。「Internet への自由」は Internet そのものが保障している(というかそうしなければ Internet は Internet として存在しえない)。「Internet による自由」についても実感する機会が増えた。ところが「Internet からの自由」が失われているのではないか。とはいっても「我々は Internet に一日中接続されており,絶えずそこからくる大量の情報に曝されている」という状況から脱出するという,よくある "unplugged" の話ではない。
おそらく日本だけなのだろうけれど,人々の行動が Internet によって正しく言えば,人々の意識が Internet 上に投射されてそれが集合体となって(一つあるいは複数の)人格をもった存在となった,その存在によって監視されているという現状があることを憂慮している。Internet 外の行動が Internet によって制限されるようになっている。
Internet 上の行動が Internet によって制限される,という話とは違います。Internet 上で馬鹿なことをやれば……つまり店舗の冷凍庫に寝そべった画像を Internet 上に載せたり,あるいは飲酒運転した旨を書き込んだりすれば,それが非難されることは自然の流れでしょうが,そういう話をしているのではない。Internet が Internet へ干渉するのではなく,Internet が Internet 外(“現実”)へ干渉しようと進出しつつあることを言っている。
Internet 上の集合意識が Internet 上の個人へと干渉する「炎上」については疑問視していない。これは僕が Internet 上では常に個人としてしか(僕の発言だと認識できるような形でしか)発言していないからである。(匿名での発言者は信頼できない卑怯者だ,という議論についてもしかしたらこの視点がよい理論をあたえるのかもしれない,と今更ながら気づいたのだが,それはここでは関係ない。)そして,集合意識から僕が攻撃されたところで何とかする術をもっているからである。のだけれど,Internet が現実へと干渉しはじめて Internet により人々の自由が失われる状況が近づいてきているのであれば,Internet 上の集合意識による Internet 上の個人への干渉も避けなければならないのかもしれない。しかし炎上を煽るのは楽しい。(でも炎上を煽るのが楽しいという事実自体が,僕もまた社会の側の色に染め抜かれているということの象徴なのかもしれない。)
「Internet からの自由」と「個々の人間として意志を発揮すべき国民ひとりひとりが社会の側の色に染め抜かれている」という話はつながっている。でもどうやら上手く書けそうにない。個人が社会の構成要素として存在している社会では個人は社会の発言を代弁するために存在するのであるから,従って個人は社会なしには存在し得ず,個人の意見は社会の意見を創り上げるためにある,あるいは個人は社会の意見に合わせて自分の意見を構築する。この「社会の意見」というものがいわゆる「空気」というものであり,それは属人的でない——個々人の平均を取っているために属人性が失われてしまっている——ために,“非人間的なもの”具体例が思いつかない。正義とか正論とか論理とかだろうか。いわゆる常識という概念に近いが,常識が依拠しているもの,であるために常識とは異なる層にあるものである。に依拠せざるを得なくなる。
つまり,非人間的な機構によって人間の行動の全てが制約されるようになる,という絶望です。
Comments
yamakan 2013/10/28(Mon) 21:46:45
社会的な貢献をしている、あるいはする意思があるのであれば、既に自由でないのかもね。
みしょ 2013/10/28(Mon) 22:00:17
行動は全て個人的なもので、かつ(個人の意志が行動となって社会を構成している状況でも、あるいは社会が個人の行動を規定している場合でも)行動は必ず社会的たりうるから、社会に貢献したいという個人の意志はかなり盲目的に見える、ということ?
ならばその通りだと思うわ。
yamakan 2013/11/05(Tue) 17:41:56
その時点で社会にとらわれているということで、自由でないかなと。
盲目的とは言わないけど。
社会に期待されるよう貢献する意思をあえて持つ自由もあると思うし。
個人の行動がその個人にしか関わりなく、他の人間と関係なければ、それは社会を構成していないと思う。
社会からの全くの自由を得るためにはそれしかないかと。
行動が社会的な時点でなんらかの制約を受けるかなーと。
行動が社会を構成しても、社会が行動を規定しても、外からは同じように見えると思う。筆者にもある特定の人々の行動が社会を構成してきたというような書き方をしているんで。
takatake 2013/11/06(Wed) 21:31:05
多面的な漠然としたものに対する絶望は、自分自身への絶望の投射とも受け取れる。
みしょ 2013/11/11(Mon) 14:22:40
>>yamakan
「行動が社会的な時点でなんらかの制約を受ける」のは当然なのだけれど,その制約が「人間からの制限」なのか「(『正しい人間』のような)抽象的なものからの制限」なのか,という点を問題としている。(たぶん僕の意識の背後に,公共の福祉と公の秩序の違いがあるのだろうけど……まあこれは法学やってる人にしか理解できないか。)
前者を「自由」と呼ぶのだと思う。それを取り払った自由は存在しえないから。なぜなら,人間 A が人間 B による制約を受けないのであれば,B は A から制約を受けるから。
>>takatake
自分が社会に対して絶望することは,社会が自分に対して絶望することなので,それはその通りだと思う。