5月2日
4月のこの時期(というか正確には ניסן 月から אייר 月ににかけてのこの時期)は,ישראל では פסח (過越祭),יום השואה(大虐殺 remembrance 日), יום הזיכרון (戦没/terror 犠牲者 remembrance 日), יום העצמאות (独立記念日)という行事が続く,ישראל の本質的な部分がよく見える時期で,3 年しか住んでいない僕でも色々なことがわかって,一年の中で一番好きな時期です。
今年の過越は研究室の boss のお宅に招かれて,今年でいなくなる(僕も含めた) postdoc たちと סדר をした。
昨日は יום הזיכרון だったので,大家さんが家族で戦没者追悼の טקס に行くのに一緒に連れて行ってもらった。彼らの息子が 2006 年 8 月 13 日(というか אב 月の 19 日)に لبناب との戦争で亡くなったので,彼らは彼のことを זוכר するのに,僕も混ぜてもらった。
軍墓地には大勢の人が集まっていて,大家さんの孫たちや,軍務当時の同僚や友人も,国の各地からやってきていて,まるで盆や正月の親戚の集まりみたいだなと感じました。
ほとんどの ישראל の人たちは大体騒がしくて自分勝手で声がデカくてすぐ怒る……というと感じが悪いので「自己主張がものすごい」ぐらいの表現にしておく,そんな感じなのですが,追悼の siren が 2 分間鳴り響く間は,そんな人たちも物音を立てずに静まりかえっていて,この人たちは静かにすることが出来たんだ,という奇妙な驚きと,彼らすら黙らせる尋常でない気持ちみたいなものを感じた。
それだけでなく,軍や青年団が大量の水や花を参加者に無料提供していて,国というのはこういうものなのだ,という,国の威信みたいなものも感じられた。(日本の原爆関係の平和祈念/記念式典にも何度か行ったけれども,そういうことはやっていなかった。意識の違いだろう。)
その後は(毎年恒例の)大家さんの自宅で食事会。前述の関係者が来ていて,一緒に立食形式でタダメシをごちそうになった(ひどい表現だ)。大家のおじいさんがいつも飲んでいる「イラク風紅茶」(תה עירקי) というのを初めて飲んだ。
日没後は יום העצמאות のお祭りで,毎年のように ירושלים での式典の様子を TV で眺めて,丘の上に(今年は初めて時間通りに!)花火を見に行って,だらだらして過ごした。街では若者がわちゃわちゃしているけど,それは 3 年前に体験したので(人混みも嫌いだし)だらだら過ごすことにしている。
今日もお休み(יום העצמאות)なので, חוף に来て,泳ぐ若者だとか空軍の遊覧飛行?だとかを眺めながらだらだらしていた。
そういった感じでこの時期が一番好きなんだけど,日本語で書いても誰も理解できないと思うので,自分のために日本語で書いている。
彼が戦没した日(の付近)の自分の日記を見返してみると,戦争のことについては何も触れられていない,もちろん当時は両国間の戦争については耳にしてすらいなかったし,そもそも ישראל という国を知っていたかどうかすら怪しい(場所は知っていたとしても少なくとも隣国の国名は知らなかったはずだ),心理的に(相変わらず)不安定で自分のことで精一杯だったんだなあみたいな感があって,かわいいなあみたいな感がある。彼は 31 歳(太陽暦では 31 歳になる直前)で亡くなったので,僕はちょうど彼と同じ年齢になったということになる。