東京に来たときには,池袋のジュンク堂書店(と東大生協の書籍部)に行くようにしている。今回はとりわけ,物理数学の本を探しに来た。というのも,元日にも書いたように,「物理学に用いる数学と数値計算」の講義設計にずっと苦しんでいて,なにかちょうどいい教科書はないだろうかと思ったのだ。
物理数学の講義は難しい。物理学を教えるのではなく,物理学の学習につかう道具を教えるのだけれど,そんな道具なんて無限にある。なんなら僕もまだ日々勉強している。その中で,学部二年生にとって重要なものを教えなければならない。まずは,何が重要なのかを取捨選択する。
すると今度は,授業時間および前提知識が問題になる。例えば東大では線形代数は1年生の必修だが,勤務校では 2 年次の「物理数学」で教えることになっている。東大で 40 時間かけて教わったものを,今は 17 時間で教えなければならない。もちろん学生の前提知識にも差がある。特に臺灣では 2019 年の教育改革によって,大学生の数学力が明確に低下したようで,特に論理的思考に苦労しているようである。
そもそも,学科全体の curriculum そのものがまだ生まれたてのもので,今年でようやく 3 年目,つまり一区切り。来年度はこの(後期の)講義を担当しない予定なので,暢気にかまえていたのだけれど,同じ講義の前期の方を担当する可能性もある,ということに気づいてしまい,これはちょっと(次の 3 年間に向けて)本気で考えないとまずいな,となったのである。
いずれにせよ,2 年生向けの講義には教科書が不可欠である。しかも,二冊も三冊も買わせるわけにはいかないので,1 年間で教える内容が一冊にまとまっていてほしい。のだけれど,教えるべき・教えられる内容が状況によって異なるので,あまりいい教科書が見つかっていない。そういったわけで,ジュンク堂(と東大書籍部)を視察しているわけだ。
なのだけれど,どうも基本的なところを勘違いしていた。この国では理工系の学問も日本語の教科書で教えられているのだった。
もうすっかり失念していたけれど,臺灣に行って最初に驚いたのは,臺灣の大学では,大昔から,物理学や数学の講義では英語の教科書を用いていた,ということだった。(もちろん特定の人から聞いた話なのでどこまで一般化できるかは怪しいが,少なくとも或る教員はそれが当然のことであるように喋っていた。)僕はもちろん日本語の教科書しか使っていなかったし,何なら英語で書かれた文を読まずに試験で大きく失点した記憶すらある。だから逆に,日本の書店には日本語の本しかないし,海外で使われている国際的に標準的な教科書は(ほとんど)置いていないのだった。僕が在学していたころは東大書籍部にはそこそこ英語の教科書があったので,棚が減ったのだろう。大学院生などは,注文するか,電子版を買うのだろう。
ここには多面的な価値判断がある。まず,日本語の理工系教科書の豊富さだ。すぐにでも授業で使いたい良書が複数ある(今回は特に橋爪さんの二冊が気になった)。洋書では未だに見つけられていないのに。頼むから早く英訳してくれ,っていうか最初から英語で書いて世界で売れ,と何度思ったことか。
で,これは逆に言えば,日本の出版社が海外で販売する窓口を持っていないという残念な話にもなる。あるいは,日本の学生が洋書に触れる機会がなくなっている,という話にもなる。
日本に Nobel 賞の受賞者が多いのはなぜか,とよく聞かれる。物理学の教科書に Русский のものが多いことも思い出しつつ考えると,一つの理由は,おそらく日本語で書かれた良い教科書が多いことであろう。もちろん喜ばしいことである。
ただ同時に気になるのは,これがいつまで持続可能なのかということだ。いつ「多かった」になるのか,という問題である。というか既に「多い」の時代の終焉を生きているような感もあり,つまり大学の理工系教育の現状はもう長くは持続しないだろう,ということだ。
臺灣で働き始めてから 3 年になるが,いつもいつも,こいつらは本当にやばいことをやってるな,と驚愕し続けている。高校を卒業したてのガキが,英語の教科書を用いて,英語の講義を聞いて,英語で質問・議論して,英語で宿題を書き,英語の試験を英語で回答しているのだ。自分が 18 歳のころ "formula" すら正しく spell out できなかった,という履歴を見返すたびに,環境の違い・努力量の違いに圧倒される。
いや,もちろんこれが東京大学だったり臺灣大學だったりの話だったらまだわかる。なんなら東大はいつまで日本語でやってるんですか,普通に英語でできるやろ,なんのために英語を勉強してきたんだ,みたいな気にもなる。重要なのは,いわゆる臺清交成とよばれる難関大の学生ではない,ふつーの凡庸なガキたちが,こういうやばいことをやっている,という事実である。あるいは,中華民國政府がそのような教育政策を取っているという事実である。
政府の必死さが窺える。実のところ,ここ 10 年の間に(少なくとも僕の分野の)物理学界は大きく変化した。「中国の論文」,つまり,中国所属の科学者による論文と,(特にアメリカにいる)中国語母語話者による論文が,猛烈に増えたのだ。
思考は当然に言語に規定される。したがって,科学という活動は言語に規定される。科学界は,あたかも言語が階層化して接触している状況のように,英語 (broken English) を上層言語として現地語を基底言語とする世界であったのだけれど,このような状況になると,現地語の一つであった中国語が上層言語の地位も占める状況が(特に地理的に局所的に)生じうる。2 つの世界が(大きさの差こそあれ)並立する,という未来すら見える。もちろん,中国語が上層言語の地位を占めたとしても,その一世代後にはそれらの上層語(中国語と broken English が混ざり(というか broken English に統合される)であろうし,あるいは一人っ子政策に伴う人口減の影響も出てくるであろう。しかし,それまでには 20 年がかかる。その 20 年が,臺灣政府の焦点なのだろう。
いずれにせよ,状況に応じて振る舞わねばならない。つまり,日本で入手可能な良書が講義で使えないことに文句を言い,日本語による理工教育の先行きを眺め,授業時間の少なさに見合った講義を設計し,AI 時代に適した評価基準を考え,物理数学の良い英語教科書を探しながら学科の課程設計について考えたり相談し,一方で平凡な学生が英語と格闘する姿に感心しつつ,それでもやっぱり試験を十分に難しくして高い要求を課しながら厳しく評価する,といった日々が続くのである。
Comments
Makoto 2026/01/14(Wed) 22:25:57
お、更新されてる!
新型コロナ発生→ゼロコロナの一時成功→崩壊までが中国という国(文化圏)の良い悪いひっくるめて象徴的な出来事だと感じましたね。