1月1日
2026 年になった。今年は日記を書く量を増やそうと思っている。
特に大学教員になって以降,英語で文を書く機会が多くなって,日々大量の英文(と programming code)を生み出す日々が続いている。一方で日本語を書く必要はほとんど無く,特に SNS もやっていないので,ここ数年は LINE 以外で日本語をほとんど書いていないことに気づいて,30年以上使ってきた ATOK を解約してしまうまでに至ってしまった。もちろん,生成 AI の発展によって,もはや日本語語彙を人類(ATOK の開発者)が管理する時代が終わったのだろうという論点もあったのだが。
とはいえ英語も programming code も,すべてを自分で書いているわけではない。書きたいことを ChatGPT に打ち込めば,書きたい通りに書いてくれる。電卓や Mathematica と同じで,計算してほしい数式を入れれば計算してくれるのが,言語の領域に拡張されたに等しい。もちろん結果に不満があって最終的には手を入れることになるのも同じなので,その点はあまり違和感を覚えることなく,脳の拡張として自然に受け入れている。
Internet は顕名の時代に始まり,その paradigm は「ハンドル」に形を変えて 2000 年ごろまで続いていた。その後,2ちゃんねる文化によって匿名の時代が始まり,顕名は SNS の,外部に漏出しない領域に閉じ込められてきた。Twitter によって匿名と顕名が混合され,また参入障壁が低くなった結果として個々人の発信は希薄化してきた。
ところが生成 AI によって,その希薄化が極限にまで達しようとしている。すなわち,厳密に無限の文章が自動で提供されることによって,匿名での発信の価値が零に収束せんとしている。となると,もはや paradigm は「ハンドル」以前のものに回帰するのではないか,そうなのであれば,そのような paradigm に少し早めに適応してみようか,という次第である。
もう一つの理由として,というかこっちが初めにあったのだけれど,時代の変化についに追いつけなくなったと感じ始めた,というきっかけもある。もちろん時代は常に変化していて,ニコニコ動画の初期まではなんとか殆どの(日本の) Internet 文化を捕捉していたつもりであったのだけれど,2010 年代以降は変化の量と速さに圧倒され,いわゆるオタク文化ですら「ほとんど把握できていない」という程度になっていた。それが,昨年 2025 年になって,ついに量的に限界に達し,「詳しいはずの分野ですら時代の変化を何も把握できていない」という状態になってしまった。
具体的な話をする。僕は 2023 年から,「物理学に用いる数学と数値計算」という内容の講義をしている。もちろん数学も数値計算も 20 年以上やっていることで,その 20 年間の変化は,たかだか FORTRAN が Python になっただとか,動的言語であっても型安全が確保できるようになっただとか,test の概念が(ようやく学術界にも)導入されただとかの程度で,「やっていること」は何も変わっていなかった。ところがそれがこの 2 年間で完全に変化した。2023 年段階では自分でやっていた coding も,2024 年には最初の outline を生成 AI に書かせるようになり,2025 年前半には subroutine だとか各行の後半部分とかを AI に補完させるようになり,ついに先月は version 1 のすべてを AI に書かせるようになった。自分の実行がそのようになってしまうと,教える側として,過去の教授方法を維持することはできなくなる。というか,過去の教授方法に基づいて講義をすると,その講義で学生が得た成果を評価することが完全に不可能になる。結果として,評価と教授の手法を毎年更新する羽目になっている。来月から 3 回目(3 年目)の講義が始まるので,それまでに考え直さなければならない。
微視的な部分でそのようであるのだから,巨視的な世界の変化も激しいに違いない。その変化は,巨視的であるゆえに小さな速さを持っているが,ひるがえって運動量は圧倒的に大きいのだろう。空間は速さではなく運動量に関連づいている。というのは冗談だけど,その片鱗は欧州の戦争に見えているし,USA と中国の対立にも見えている。となると,母語で文章を書く時間を作るのも必要かつ妥当である,と感じた 2025 年の 12 月であった。