みしょのねこごや

Diary - 2014年1月

2014年

大多数の日本人はバカだ,と思っている。

だから,首相の靖国参拝に大勢が賛同していても驚かないし,その後の米国の "disappointed" を自分の都合の良いように解釈したがっている人がいても驚かない。靖国参拝それ自体にはとても驚いたし,友人が件の記事を漫然と拡散していたのには落胆したけれども。


以前にも書いたけれど,僕の通っていた小中学校というのは田舎の公立校だったため,今考えれば本当に嫌な環境だった。生徒の 1 割は不良で,残りのうちの 8 割ぐらいの人たちはそれをそういうものだと思って眺めていた。

高校・大学と進むにつれて,とりわけ最近は好きな人とだけしか関わらないようにしたので,付き合う人々というのはだんだんと均質化されていった。

だけれども,小中学校のことを思い出すと,パチンコや Olympic,戦争ぐらいしか楽しみがない人たちが多く存在すること,首相が海外の新聞で "revisionist nationalist" と呼ばれているのを多くの日本人が知らないこと,などを想像することができる。ちなみにこれは「自分の価値観にそぐうように過去の歴史を解釈修正したがっている愛国主義者」という意味です。


その "8 割"の日本人たちが,日本を戦争へと導いたのだろう。

歴史を習っていたとき,大正 democracy から反共産主義,治安維持法,日中戦争,と進んだ理由がちっとも理解できなかった。どうして国民が宗教的高揚に至ったのだろう,ということがわからなかった。のだけれど,最近のことを鑑みて,ようやく理解することができた。


戦後に「上からかぶせられた」民主主義では,やはり70年も経てば綻んでしまうのだろう。自力で獲得したものではないから,自由のありがたみというのは理解できないのだろう。

与えられた思考力があっても,知識がなければどうしようもないし,知識があっても想像力がなければどうしようもない。欧米諸国の人たちと日本人とは,何が違うんだろうか。


大多数の日本人はバカだ,と思っている。

だから,そういった「自分とは違う人たち」とどうすれば対話し,啓蒙し,説得することができるのか,よくわからない。たぶん,「違う」とか「啓蒙」とか思っているうちはだめなのだろうけれども,だからもう逃げていくしかないのだろう。

1割の不良たちが何をするのかは僕にはわからないが,残りの8割のことはわかる。あいかわらず escalator では左側に並び,戦争を「そういうものだ」と思って甘受し,反戦論者を非国民と呼ぶ風潮にも「そういうものだ」と従い,戦争が終わったらまた民主主義に酔いしれるのだろう。

だから,2014年が日本が戦争へと邁進する年になっても驚かない。

自分の思想みたいなものについて書こうと思う。

現代民主主義(立憲主義)の基盤になっている思想が気になり始めたので,その前に……というかその参考に,自分の今の思想とか価値観とか言ったものを書いておいたほうがいいのでは,という気がしてきたので書くことにする。


僕の思想の根源は「現在がすべて」という主題だ。だいたい人間,それも僕みたいに用心深くて慎重で臆病な人間は,ついつい未来のことを考えてしまうものだけれど,できる限りそれをやらないようにしている。

理由は簡単です。未来のことを考えたとしても,現実はその想定からかけ離れて立ち上ってくるからです。考えても無駄だし,それに大体の場合は考えたとおりにならなくてイライラしたり落ち込んだりするからです。あと僕はとても悲観的なので,悲観的な未来ばかりが浮かんでくるというのもある。

要は,それを原理(公理)にすると精神が安定するのです。


そういったことだから,未来を考えることを強制するような慣習とは僕は折り合わない。その最たる例が結婚というやつで,あの「健やかなる時も病めるときも死ぬまで愛します」みたいな宣言は,頭の狂った人間の発言であるとしか思えない。もうすこし穏当に言うなら,非論理的な発言であるということです。実際そんなことが出来るはずはないから,少し論理的な人間は「そのような発言をしてもいい,というような現在の気持ちが大事だ」などと言いますが,それは完全なる詭弁です。それならそのように言えば良いだけのことです。敢えてそのような言い方をするのは,言葉が情報伝達の手段だということを忘れているか,相手が論理的にものを考えていないと思っているか,そういう発言をしている自分に酔っているだけだと思います。

僕にもそういうことを言ってくる人が時々いますが(別に愛するとかいう文脈じゃないです),そういう未来を指向するようなことを言われると本当にイライラする。思考の基盤と精神の安定を破壊しにかかっている敵なので,出来るかぎり避けるようにしている。

いずれにせよ,現行の民法によれば結婚という制度は未来についての束縛を含んでいるので,僕としては絶対に避けなければならないものである。

ところで子供を持ちたくない理由はこれとはすこし異なっていて,自分の遺伝子が好きではない,という極めて感情的な理由が主です。もちろん,子供を通じた母親(つまり着床相手)との関係が未来に対する束縛を含む可能性がある,だとか,育てるのが大変そう,だとかいう理由もあります。仮定の話として「養育費だけくれればあとは全部一人で育てるから精子くれ」みたいなことを言われた場合にどうするか,というのもありますが,それはそういった事例が発生してから考えればよさそうです。(まだ無いです。)「自分の遺伝子の複製がこの世に残るのが嫌」という理由で拒否するかもしれないけど,感情の話なのでよくわかりません。


結婚と折り合わない以上,それと類似の関係である「付き合う」みたいな概念も僕は採用していない。「交際」という関係は,実はよく考えると,排他性と継続性という 2 つの束縛がその本質です。つまり「他の人と付き合っていない」と「明日も付き合っている」ということのみが要求されていて,それ以上のものは含んでいない。「排他性」というのは,単に安心のためにあるようなもので,なかば宗教のようなものです。「他の人と付き合っていない宣言」をすることによって心の平穏を手に入れたい人はそうすればいいですし,僕は排他性の束縛を他人に課す必要を感じていないので採用しない,というだけのことです。そういえば僕はおみくじというのをとても信じていて,今年はあの浅草寺ですごい大吉を手に入れたのでとても良い気分です。

交際という関係から,排他性と継続性を排除してしまえば,それは単に「いま現在一緒にいる」ということに他ならない。いま一緒にいてお出かけしたりすることによって幸せだなあとか感じることが全てで,その後また会いたければまた会うし,そうでなければ会わない,ということです。すこしわかりやすく言うと,排他性と継続性を忘れてしまえば,「いま一緒にいる」ということが「付き合っている」ということそのものである,ということです。僕にはそういうのが合っているっぽいです。

……というような話を,年末に bar でやってたら,一緒に居た女性に「えっじゃあそれで,いま一緒にいる相手が突然明日から居なくなって別の男と付き合っちゃったら寂しくないの?」と言われた。その時は「まあそれはそれで仕方ないよね」って感じで答えたけれど,よく考えたらそれって「付き合って」ても同じで,「いまの彼女に明日突然別れを切り出されたら」という話に他ならないわけです。だから「寂しいけど,でも付き合っててもそういうこと普通にあるよね」と言えば良かった。


話をがらっと変えて,「仕事」についての話も書こうと思ったけれども,眠くなったのでこのくらいにしておきます。それなりに長くなってしまった。