6月17日
そこにすんでいるということ
明日,人生で 3 度目の引っ越しをします。ただしここで 4 歳のころのは勘定に入れていません。引っ越しの前には日記を書くことになっているので,久しぶりに日記を書こうと思います。
こんなにもひとところに居るとは想像していなかった。
最初の引っ越しは 2004 年 3 月 29 日で,4 歳から 18 歳まで住んだ実家を離れたときでした。段ボール数箱分を新居に送って,佐伯を(大分を)離れました。
駒場 campus のそば(明大前駅/世田谷区松原)に住みましたが,駒場には 2 年間しか通わないので,2005年12月26日に引っ越しました。その数日前に『道の話』と呼ばれる話を書いている。
小学校とか高校の通学路には,その通学路に付随する周辺に,色々な思い出があった。だからその道にも思い出が残るんだろう。そう思ってた。でも,この道には,思い出はない。印象的な出来事もないし,事故を起こしたわけでもないし。ただ淡々と毎日自転車を走らせた道。それなのに思い出が残ってるってことは,道自体が思い出の対象となりうるってことなのか。へー。
そういえば,僕はこれまでいろんなところを歩いた。札幌,小樽,仙台,日光,岩井,妙高,横浜,名古屋,長野,山梨,小淵沢,静岡,能登,七尾,石川,大阪,京都,奈良,関ヶ原,広島,神戸,福岡,長崎,そして大分と東京。そのそれぞれの道に対しての「記憶」はある。では,何を以て記憶と思い出の境界とするのか。たとえば,小樽は思い出ではないし,能登は思い出だ。時間ってわけでもないし。もしかしたら,精神状態なのかも知れない。
20ヶ月間通い続けた道。とりあえず,明日で多分最後です。
でも,最後だからって,またいつでも行けるのです。道の形は変わっても,道自体は無くならない,って思うのです。
ちょうど似たようなことを考えていた。
事実上の話をするならば,2006 年 1 月 3 日の夜から 2013 年 6 月 18 日の朝まで,この家に住んだことになる。2723 日,7.45年だ。こんなにもここに住むとは想像していなかった。
ここに引っ越したのは 2006 年 1 月,学部 2 年のころだった。物理学科に進むことは決まっていたし,修士課程にも進む気で居た。しかしそれでも,つまり東大の大学院に受かったとしても,せいぜい 4 年ちょいだろう。そう思っていた。
博士課程に進むことに決めたのは素粒子論専攻に受かったときだった(と思う。誰か日記を精査して確認して下さいw)。2007 年 9 月,6 年前のことだ。しかしそれでも博士号を取得する気はあまり無かった。つまり住み始めて 3 年した段階で,まぁあと 3 年ぐらいだろう,と思っていた。
そのままずるずると来てしまった。2009 年の 12 月に,学振の特別研究員に採用された。これで,7 年間住む,ということが確定して,そして結局そうなった。
こんなにもひとところに居るとは,7 年半前の自分は想像していなかった。当時の彼の日記がおもしろい。
そうか,僕は 20 代のすべてを,この家で過ごしてきたのか。20 歳から 27 歳までの時期を。
今後10年は,多分人生の中で一番変化の大きい10年になるだろう。がんばらないと,と思うと同時に,楽しんでやれたらいいな,という気にもなっている。色んなことがあるだろう。進学と卒論,卒業,院試,修論は確実だし,他にももしかしたら博士,就職,留学,(結婚……は無いかw)とにかく色んなことがあるかも知れない。大胆に進んでいって欲しい。
とりあえず大体合っている。しかし,精神構造上の革命までは予期できていなかった。
象徴的な話をすると,この家に知人を上げたのは,実は 4 回しかない。1 回は母親,1 回は新居祝いの飲み会で当時の友人 2 (3?) 人,そして 2 回は(それぞれ当時の)恋人。
理由は簡単で,2008 年前後の数年間に鬱病になったからだ。最初の(ほぼ)一年間に 3 度招いた。その後鬱病になって,家の中の掃除をあまりやらなくなったり,ものを処分できなくなったりした。鬱病だった 1 年間の間に,構造的に掃除ができないような状態になってしまって,そのまま忙しくなって掃除をする余裕も家の中に人を入れる余地がなくなって,結局,回復後の 4 〜 5 年間に家に上げたのは,当時の恋人が来た 1 回だけだった。実はお互いのことを様々な事情でよく理解していたので,家に招いてもいいかなと思ったのだ。
20 歳の彼は,20 歳の抱負を『やわらかく』と書いている。しかし,今の僕にしてみれば,それ以前の日記を見返しても,あるいはその日記自体からも,その実現が不可能であったことは容易に理解できる。「やわらかく」生きられるような精神を彼は持っていなかった。今の僕は抱負すらない。抱負を持つ時点で,すくなくとも今の僕よりは柔らかくない,と,今の僕は考えている。7 年後の彼はどう思うのだろうか。
そして,今思えば必然的に,21歳から23歳にかけて,22 歳の頃は特に,精神状態が不安定になった。
それを経て,精神構造が変わったように思う。ものごとをあまり考えないようになった。多分 IQ も下がったと思う。最近日記を書かないのはそのせいなのだろう。Twitter があるから,というのは理由にならない。たぶん,「未来について考える」ということを一切辞めたので,その結果として「何かを残す」ということを諦めたのだと思う。
今は23時44分。書き始めて40分。もちろんあと16分で終わらせねばならない。
道の話をしなければならないのだった。
「住んでいる」ということの象徴が自転車なのだと思う。ママチャリに乗っている人間は,必ずそこに住んでいる人間だ。そこでママチャリに乗るためには,そこに住まなければならない。
この家から 7 年間,自転車で本郷まで通学した。なぜならそこに住んでいたからだ。ありとあらゆる道を知っている。そして 7 年間住んだ結果として,信号の変わる rhythm を完全に覚えているので,特に本郷から自宅までは,運が良ければ(特に深夜はほぼ必ず)一度も地面に足を着かずに,かつ交通諸法規を遵守して,帰宅することができる。これが,そこに住んでいるということなのだと思う。
もちろん今後もここに来ることはある。少なくとも今週の木曜日にまた来る。しかしそのとき自転車は無い。
今日,最後に,本郷 campus に行ってみた。根津駅からの坂道を自転車で上る。いつも見た景色だし,斜面の角度も完全にいつも通りだ。Gear を正しく操作すれば,立ちこぎをせずにのぼり切ることができる。そういえばここに住み始めた最初の夏休み,8月猛暑の真っ只中,生物情報科学の集中講義に出席するためにこの坂を上ったなぁ,ということを思い出していた。坂は暑さの象徴だ。
この process は,そこに住んでいる人間にしかできない。
今日,最後に,cafe からの帰り道に本郷に行って,7 年間通った建物の前から,自宅まで帰宅した。弥生門の前で最徐行して,そのすぐの道路を,campus の外壁沿いに走る。そのまま言問通りの車道から,遠くにある信号を眺めて,その rhythm に合わせた速度で進行して,坂を駆け下りて,不忍通りを 20km/h で走る。なか卯の前の信号を通過できたら減速する。松屋の前の信号はここで必ず赤になる。ちょうどいい速度で走れば,ちょうど青になるときに松屋前の信号に着く。あとは 20km/h で走れば,(交番の前の curve に注意して)道玄坂下の信号の,手前の歩行者用信号が青に変わるので,そこを横断する。あとはとてもゆっくり走れば,SUNKUS の前の信号が変わるので,そこを左に横断すれば帰宅できる。
これらのどの process も,そこに住んでいる人間にしかできない。
今日はそんなことを考えていた。
そしたら,7 年半前の,まだ精神の解体を経ていない(賢い)人間が,似たようなことを書いていた。
「またいつでも行ける」のだけど,その時あなたは歩いて行くのでしょう。自転車では無いのでしょう。実際,3 度ほど駒場当時の通学路を歩きましたね。歩きましたね。それが違いです。あきらめましょう。
彼の日記を読みながら,そんなことを考えた。
書きたいのはこういうことだったかしら。全部書けたかしら。
まぁいいや。23時57分36秒。
さて,あと数秒で6月18日。Ciao Tokyo.
Comments
みしょ 2013/06/18(Tue) 00:01:41
そういえば,新居はとても広いので,みなさん遊びに来て良いですよ。
みしょ 2013/06/18(Tue) 00:51:30
追記)その後,地図を見ていたら,本郷弥生より始まる言問通りの行く果て,言問橋が,国道6号へとつながっていることに気づいた。根津坂の向こうは柏へとつながっていた。
Y 2013/06/18(Tue) 20:44:58
この日記は「住む」ということを個人がどう認識しているかということを知るという点で大変面白い資料ですね.
私もこっちに住んでそろそろ1年,やっと道の話ができるようになりました.日本帰ったら泊りにいきます.
みしょ 2013/06/19(Wed) 00:39:00
相変わらず難しいことをいいますね。
いいですね。