4月3日
סדר פסח
היועצה יעל に invite されて סדר פסח に参加してきた。סדר פסח では הגדה של פסח という本をみんなで読むことになっていて,それに従って晩餐が執り行われる。עברית を勉強していたおかげでみんなが לקרוא するのに何とか着いていくことが出来て,英語の対訳も参考にしながらそこそこ להוינ ולקרוא できた。
最も impressive だったのは,הגדה של פסח の中に普通に aramaya の歌が出てきて,子供達を含むみんながそれを歌っているということだった。一度は滅びたけれども尽力によって復活した עברית と共に,紀元前の人たちが喋ってきた(そして今では使われていない)言語が現代に受け継がれ,古形を保ったまま自分よりも 1 世代後の人たちにも伝わったというのは偉大なことだ。似たような事例古代語の近隣語が verse などの形で古代語話者に包摂されて現代まで保存された例を僕は知らないし,特に日本語圏においてはそのような状況は起きなかった。
もちろん食文化も面白くて,たとえば Gefilte fish が魚のすり身に似ていたり(というかそれそのもので,薩摩揚げを思い出した),מצה が本当に味も食感も boring なんだけど Gefilte fish や מרור と一緒に食べると美味しかったり,これは完全に食文化だった。言うまでも無く supermarket では פסח-illegal なもの,or food not guaranteed for פסח, は入手不可能な感じになっていて,これは近所のアラブ人街に行くしかないなという感じだ。
翻って,日本には סדר פסח のような一族みんなが集まって楽しむ会というのはあったのだろうか,ということが気になった。もちろんあるのだけれど,סדר פסח は子供が主役の祭で,それゆえに家族みんなが楽しめる。そういう会が,
とここまで書いたところで,しかし自分が子供だった頃も日本の盆正月の会を楽しんでたよな,と思って,まあ結局,自分たちの文化を家族を単位として受け継ぐために「親族」という巨大な関係を maintain する,という tough work を行うかどうか,それを support/push する文化があるのか,という話になるのだろう。
歴史的日本文化を脱退して 21 世紀の文化へと鞍替えした僕にとっては,ちょっと羨ましい話だった。と書いても意味解らないだろうな。現代社会には,たぶん時間軸を貫いている文化と空間軸を貫いている文化,つまり特定地域で代々受け継がれてきた文化と,(Internet と高度交通によって可能になった)現時点においてのみではあるが汎域に存在する文化とがあって,僕は(とりわけ家族という単位を再生産していないがゆえに)前者の一つである日本文化から脱退して後者に重点を置いているという意味です。
חג שמח!