みしょのねこごや

Diary - 2011年12月

信号を守ることの重要性

「道路を横断するときには信号を守って渡る」ということの重要性は,まともな頭でチョット考えれば理解できることだろうと思っていた。だけれど,どうやらそうでないらしい,ということが先日分かったので,その重要性を整理してみようと思う。

なぜ信号を守るべきなのか。いくつかの回答が考えられる。

「信号を守るのは良いことだから。」こんな回答をするのは思考停止の証拠であるので,論外として,「法律でそう定められているから。」としてしまうのも微妙である。法律を守ることがよいことである,という思想は,虐殺や抑圧を止められない。合法的ならば善いという思考は,危険である。最近みしょが愛用している「合法」という言葉の妙も実はこの辺にあるのだけれど,それについては長くなるので書かずにおく。

「赤信号を渡ると危険だから」というのは,回答になっていない。それでは危険でない状況ならば赤信号でも横断してよいのか。あるいは,危険か安全かを誰が判断するのか。しばしば,老人はこの判断を誤って死ぬ。「罰則があるから(2万円以下の罰金又は科料)」というのも微妙で,それでは2万円を払えば良いのか,ということになる。これらの回答は合理的ならば善いという思想に基づいているのだけれど,新自由主義の亡霊に取り憑かれているのか,あるいは資本主義の家畜となっているのか,いずれにせよ搾取される側にまわるだけだ。これは,先日の大阪の選挙で「チョット面白かったこと」の1つだ。新自由主義的な,あるいは小さな政府を指向する立場は,必然的に格差を拡大するので,多数の弱者にしてみれば脅威なはずなのだけれど……。資本主義軍の軍靴の足音が聞こえる。

思うに,様々な問題の中には,「善悪」を基準として回答してもうまく行かないものが多い。もう少し正確に言えば,「○○すべきである」という主張の根拠として,善悪を持ち出すと,それはうまく行かない。むしろ,「かっこいいかどうか」を判断基準にするのが適切だと思う。

「なぜ信号を守るべきなのか」の代わりに,「なぜ信号を無視して横断するのか」という問いを考えると,状況は明らかになる。最大の理由は「急いでいるから」であり,あるいは「守らなくても安全だと判断したから」であろう。

急いでいるから信号を無視する人。彼から見えてくるのは,余裕の無さである。新渡戸稲造によると,余裕とは心の大なることの何よりの証拠であり,屈託せず,混雑せず,さらに多くをいるる余地ある心である『武士道』(矢内原忠雄訳)。余裕の無い人は心が狭く,「さらに多く」を入れることができない。急いでいるから信号を無視するような人間は,他人を受け入れる度量の無いつまらない人間であり,自分のことでいっぱいいっぱいなので周りにイライラをばらまくものである。彼は,せこせこと慌てて道路を横断する。その姿は何かに追われているようで,堂々としておらず見苦しい。

守らなくても安全だと判断したから赤信号でも横断する人。彼女から見えてくるのは,傲慢である。もちろん自分で判断することは重要だけれど,その判断を盲信して他人の客観的な意見を受け入れないのは,危険である。あなたの判断は常に正しいのか。そうであるなら良いけれど,でもそうではないだろう。彼女は,さも自分が正しいかのように堂々と横断する。しかしそこにあるのは余裕ではなく,他人を見下したふてぶてしい態度であるがそこからは感じられる(混乱を招いたので表現を正確にしました。)

最初の問いに戻ろう。「なぜ信号を守るべきなのか」。それは,「そのほうがかっこいいから」である。

外見のかっこよさは,容易に偽装できる。Twitter での発言を取りつくろうことによって,自分を本来あるよりもカッコよく見せることは簡単である。女が化粧で美しくなって男を騙すように,男は偽りのカッコよさを作り上げて女を騙す。ただし,そんな男に騙されるのはつまらない女であり,一方で女の化粧に騙され「ない」のは野暮な男である。一方で,内面のかっこよさは,このような日常の何気ない行動に現れる。ゆえに容易に偽装できない。そのようなかっこよさを持ちたいものであるし,そのようなかっこよさに気づく人間でありたい。あるいは,そのようなかっこよさに気づく人間と付き合っていきたい。

というわけなので,僕は「信号を守って渡るほうが良い」と思っているけれども,他人に対して「信号を守れ」と叫ぶつもりはあまりない。みんなが信号を守ると,僕のかっこよさが目立たなくなってしまうじゃないか。まぁ,かっこよくありたいとは思っていても,かっこよく生きるのは難しい。僕もまだまだかっこよさからは程遠いので,もっと注意していきたいものである。

大阪の選挙でチョットおもしろかったこと,あるいは放射性物質は無主物であること

先日の選挙についての日記のときの「忘れてしまったもう 1 つの面白そうなこと」を,数日前に思い出しました。昨日の日記でもチラっと触れたのだけれど,昨日友達と夕ご飯を食べながらその話をしたら,かなり明瞭に整理することができたので,ここにも書いてみようと思ったのです。


先週ぐらいに,朝日新聞が報じたサンフィールド二本松ゴルフ倶楽部が,東京電力に golf 場の除染をさせるよう仮処分を申し立てた件が Internet 上で話題になりました。とりわけ,その中で東京電力がしたとされる主張が,批判の対象となりました。すなわち原発から飛び散った放射性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない。という主張です。

僕は,この件で東京電力を非難する意見は,すべて取るに足らない,無価値な,頭の悪い意見であると考えます。そもそもこの記事には大きな問題があり,むしろ目くらましに近いものであるかのような印象すら受けます。

まず,この件で何が一番重要なのでしょうか。それは明らかに,裁判所の判断です。記事によると決定は10月31日に下された。裁判所は東電に除染を求めたゴルフ場の訴えを退けた。とのことですから,東京電力の主張が認められたということになります。とすると,焦点は東京電力のどのような主張が認められたのか,あるいは,裁判所はなぜ除染不要と結論したのかになります。

この記事をちょっと読むと,「東電の『無主物』との言い訳が通じた」かのように見えますが,それは書かれていません。Internet 上で検索すると,読売新聞の記事が見つかりました。それによると,福島政幸裁判長は「除染の手段や時期は国などの調整のもとで慎重に検討されるべき」とした。あるいは,同社側は休業中の人件費などの仮払いも求めたが,決定では「現状でゴルフ場の運営が不可能とは認められない」と退けた。とのことです。僕が推察するに,おそらく裁判所は,放射性物質が無主物かどうかの判断は避けつつ,東京電力がすぐに除染しなければならないという法律上の義務は存在しない,というところに落とし込んで,申立を退けたのではないでしょうか。いずれにせよ11月14日に即時抗告したらしいので,高裁決定を待つ必要があります。

ここで注意しなければならないのは,裁判所は法律に基づいて判断するということです。であるならば,非難の対象は東京電力ではない。具体的に言えば,裁判所,あるいは国会や政府に対して声を上げるべきです。特に,裁判所が放射性物質を無主物と認めたのであれば,みしょはこの点について議論の余地があると考えているので裁判所に対して批判をし,世論により圧力をかけるべきです。あるいは,東電に除染の義務を負わせるべきであると考える人は行政に,法律がおかしいから変えろというなら国会議員に対して声を上げるべきなのです。ただし法律の一般性・抽象性に注意。

整理しましょう。朝日新聞の記事は重要な点が抜けている。東電への批判は無意味であり,むしろ記事がウケのよさを追求して書かれているために,本来批判すべき相手から目をそらされている状況である。


ところで,東京電力を批判するのが「無価値で頭の悪い意見」なのは何故でしょうか?それは,東京電力は株式会社であるからです。東京電力は株主のものであり,その存在理由は株主利益の追求にあります。つまり,株主の利益が最優先されるのですから,損害賠償は少ない方がいいし,余計な法律上の義務も追わない方がよいのです。「非人道的だ」とか叫ぶのは勝手ですが,これが資本主義社会の rule です。人道的であるべきだなんていう子供の言い訳は通用しません。最近では企業の社会的責任 [corporate social responsibility] が叫ばれていますが,企業がこれを採用するのは,それが株主利益につながると判断したからです。東京電力はほぼ独占企業なので,CSR はそれほど重要視しなくてもよいです。というか,たとえば花王に対する不買運動があまり効果をあげなかったように,消費者の声なんてそんなに大きくないので,もしかしたら独占企業でなくても重要視しなくてもよいのかもしれません。

というわけで,東電が放射性物質を無主物だと主張するのは,資本主義の rule を考えれば当然なのです。


では,何が問題だったのでしょうか。なぜ我々は,東電にそのような傲慢を許したのでしょうか。僕は,原子力発電は国の管理の下で行われるべきだった,市場原理に任せるべきでなかったと考えています。

「市場主義」は様々な場面で成功を収めてきました。例えば郵便局は民営化によって利便性が向上したように感じていますし,NTT や NHK に対しても不満は感じていません。しかし,市場は万能ではない,というのは常識であり,特に警察・国防は市場に任せてはならない(国が担わなければならない)とされています(理由は省略)。僕は原子力関連事業もこの仲間に加えるべきだ,と考えます。原子力は国策上きわめて重要であるだけでなく,事故が起きたときには一企業の手に負えないような災害になります。特に,放射性物質は数十年単位で残るので,企業の時間感覚とは到底釣り合わないものです。より長期的感覚でものを考えることができる国家に任せなければならないものだったのです。

おそらく,これが今回の原発災害の本質です。残念ながら,僕もこれに気づいたのは災害後(というかごく最近)でした。もうちょっとものをよく考えることができて,ものをもっとたくさん知っていて,もっと早く気づけていれば,と後悔しています。


ところで,先日の大阪の選挙では維新の会が勝利しました。維新の会は,どうやら思想としては新自由主義にあたるようで,つまり市場の力をわりと信じる立場です。

ここに奇妙なことがあります。小泉さんのときもそうでしたが,この立場は若者に人気があるのです。新自由主義,あるいは小さな政府を指向すると,格差は必然的に広がります。格差が広がるときには,上の人がより上に,下の人がより下に行くものなので,現在,その多くが「弱者」である若者にとって,小さな政府は損なはずなのです。なぜ,若者は,自分が利益を得られそうにない候補に投票するのでしょうか。

大きな政府では数の多い老人を優遇するから,だとか,あるいは「搾取する側」から洗脳されているから,だとか,いろいろ可能性は考えていますが,不勉強なせいで,僕にはまだ理由はよくわかりません。これが「面白いこと」です。


東電の話と大阪の話を,論理の飛躍を覚悟してちょっとつなげてみましょう。

内田樹さんの記事に,「教育には政治と market は関与してはならない」という記述があります。僕もこの意見には同意するのですが,しかし大阪市民は橋本さんを選びました。原発事故の影響で,市場の正当性に疑いの目が向けられていてもおかしくはないと思うのですが,それでもやはり大阪市民は市場を信じたいのかもしれません。


さすがに今のはちょっと飛躍があった気がします。もう一度,確実なところに戻って整理しましょう。

原子力関連事業を市場に任せたのが原発災害の原因であり,東電を非難しても無意味であります。本当の相手は行政あるいは国会なのです。

感情的に,非人道的であることをもって東京電力を非難するのは,本当に無意味です。無意味な批判はやめるべきです。批判を Internet の掲示板などに書いても,何もはじまりません。むしろその程度で「気散じ」してくれた方が,東京電力にとってはありがたいのです。最近では Internet で簡単に自己顕示欲が満たされるようになった(気散じできるようになった)ので,“SYSTEM”の側はほくそえんでいることでしょう。僕も東電株主なので,ほくそえんでいます。

まぁ,ものを知らなかったり,あるいはものごとをちゃんと考える能力がないのであれば,そのような行為に走っても仕方ないのでしょう。僕がもう少し「意識が高い」人だったら,啓蒙活動などをしたのでしょうけれど,あいにくほかにもっと楽しいことがいろいろあってそんなことをしている余裕がないので,「もっと頭を使って考えて,もっといろいろなことを勉強すればいいのになぁ」と残念に思って,そして同時に,「幼稚な意見だなぁw」と嘲笑いつつ,生きていくつもりです。啓蒙とかは意識の高い人にお任せします。

そう。みしょはとても傲慢なのです。

みしょはおぞましいからな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ワンワンワン! ワンワン!

ニャーニャニャニャニャーニャオー。

ワン! ワンワンワン! ワワワンワン!

ガーガー,ガガガーガーガー。

ワォーン,クゥー。

ニャーニャニャニャーニャーニャー。

ワンワンワン! ワンワン!