みしょのねこごや

Diary - 2019年12月

早く死なないかなあ,とぼんやり思いながら,特に何もやる気がなくて毎日を惰性で生きている。自分から死ぬ気もなく,かといって何かやることがあるわけでもない。生活は惰性でも何とかなるようで,よくわからないまま日々が過ぎている。

やる気がないのは病気なのか,それともそもそもこういう性格なのか。つまり,これは鬱病の症状であって,持っている薬を飲めば何かやる気が出るのだろうか。薬を飲んで気力を嵩上げしたところで何か良いことがあるわけでもないのだけれど。とりあえず明日から飲んでみるつもりだが,薬のせいで自殺したらそれはそれで面白い。(病院に行ってまで気力を嵩上げしよう,という気力はない。)

何か面白い研究ネタがあれば話は別なのだろう。それでも,論文を眺めても,100 年後まで真偽がわからないような理論を組み上げるだけで,もちろんそれは一見明白に「棄却されていない」んだけどもとりあえず体裁を出すために allowed region の絵を描いてみたりして論文にして。で,次にその future prospect を議論して,100 年後の実験ではここまで探索できます,でまた 1 報書いて論文数を稼いで。じゃあ100 年後の実験でも探索できない領域に「正解」があったらどうすんねん,という質問に答えないまま,ただ有能さを見せるために論文数を稼いでいる。

結局,現象論は LHC や宇宙観測で何も異常がない現状では,本質的には不要なわけで。喉がかわいたので天を見上げて雨が降るのを待っている人々の集まりに見える。

もちろんそれを踏まえてもなおやる意味があるであろうことはいくつかあって,最近はそういうことをやっている。一方で,上を向いて口を開けている分野にいつまでも居てもなあ,という考えはあまり変わっていない。とはいえ,転職する気力もない(というか転職先で何をやりたいのかが特にない)ので,あと 13 ヶ月はこういう惰性の日々が続くのだろう。

そもそも,30 年も生きれば普通は人生にも飽きて,惰性で生きることになるのではないか。ではなぜ 30 とか 40 とかになってまで生きていられるのだろうか。もしかしたら,大体の人間は,子供を作って,子供の成長を自分の成長だと意図的に勘違いすることで,すなわち自分の生きがいを子(あるいは孫)に押しつけるようにして生きているのではないか,という気がしている。生きがいという幻想をたよりに生きているのが正常なのか。