みしょのねこごや

Diary - 2012年7月

The Day Has Come. I'm Really Excited. (AM 0:27)


仕事が全く手につかない。。。 (13:37)


もはや単純作業すらできなくなった。(15:35)

I can no longer do even simple tasks...


みつかった。

Higgs 粒子(だと思ってほぼ間違いないもの)が見つかったことについて

大変めでたい。

大栗さん言うように20世紀物理学の主要なアイデアである特殊相対論,量子力学,ゲージ理論,対称性とその自発的破れなどが緻密に組み合わされた,人類の知の最高傑作のひとつであるところの標準模型が,これでようやく完成した(証明された)と言える。もちろんこの新粒子が Higgs 粒子であるか,あるいはその相互作用が標準模型とぴったり一致しているか,を精密に測定しなければ,完璧に「証明された」とは言えないので,ILC 実験(の建設承認)にはがんばっていただかねばならない。(諸井さんあたり特に大変だろう。。。)まぁともかく,標準模型の完成に至ったということは大変めでたい。

「標準模型」というのは,我々の身近のことを知るための物理学だと思うのがよいと思う。つまり,Higgs 粒子が見つかったことによって,我々の身の回りのことをすべて理解したのだと思う。身の回りの基本原理がすべて理解できたので,あとはこの理解を組み合わせれば身の回りのすべてが説明できる。言うまでもなくこれは還元主義の地平であり,chaos 理論やあるいは生物学(特に system 生物学の文脈)を考えればそんなわけはない。というかそもそも物理学自体が量子力学という決定論からの脱却に立脚しているわけなので,物理学的にもこの主張はおかしい。

もちろん人類の知的好奇心は止まない。我々の身の回りを知ることができたら,次はもっと遠くの,あるいはもっと昔の,そして未来のことを知りたくなる。僕らのやっている素粒子物理学は,いつもの僕の言い方では「宇宙の歴史を探る研究」であり,あるいは「宇宙の正体を探る研究」である。Higgs 粒子の発見により,ようやく僕らの研究が,理論家の妄想的な白昼夢ではなく,自然科学である,と言えるようになったのだろう。

言い換えれば,今の我々は 16 世紀の段階であると言える。1522 年,Magellan 一行が世界一周を成し遂げ,地球の上のことがようやく理解できた段階である。そしてこれから,Gallilei が木星を見上げて天動説を疑ったように,より遠くへ,過去/未来へと目を向けるようになるのだ。


Higgs 粒子について,どう説明すればよいのかをちょっと考えていた。特に,生ハムメロンほか多くが指摘していたように,水飴/人ごみ理論は Higgs 場と Higgs 粒子を混同しているし,aether の存在へと導くことになってしまって絶対静止系の間隙に落ちてしまう。何より,そのような比喩による説明は,何となく理解できてしまうのにぜんっぜん面白くない。Einstein と Bohr / Heisenberg に始まる20世紀物理学の集大成を,水飴ですませるのは勿体ない。

たぶん,濱口さんが言うように「理解したければ場の理論を(古典論でいいから)勉強してください」というのが一番よいのだろう。Higgs 粒子を何となく理解するよりも,場の古典論を何となく理解したほうが,20 世紀の人類の英知の結集に迫れると思う。

まず梃子・滑車・斜面を滑る物体から始める。つまり 17 世紀に戻って,Newton らによる力の概念の発明を説明する。19 世紀に飛んで,磁力を題材として場の概念の発明と近接場理論の勝利について説明する。そして相対性理論について,energy と質量の等価性(物質は energy である!)と因果律(情報伝達は光速を超えない)の 2 点に触れて,量子論における粒子の概念の転換と真空概念の革命をなんとかごまかしつつ説明する。そうすれば,我々の「真空」では Higgs 「場」がなぜか一方向に傾いでいる(Higgs 場が真空期待値を持っている),と説明した上で,その Higgs 場に風を吹かせて(振動としての)「粒子」を「 \(E=mc^2\) に基づいて」生成した,ということが説明できるだろう。

あれ,でもこれで電子に質量を与えられることはどう説明すればいいんだ……。というかそもそも,我々の質量は Higgs 機構ではなくて量子色力学に由来しているわけで……。。。。。。

つらい。

僕が博士課程で身に付けようとしたこと,あるいは,論文・口頭発表・blog・日記

以前にこの日記あるいは Twitter に書いたことがあるとおり,僕は博士課程の 3 年間,発信の技術を学ぶということに注力してきた。これは一つには,世の中目立ったモン勝ち,という思想(あるいは悪評もまた評だということ)があり,また発信の技術は広く応用が可能だという考えによったものである。(ちなみに修士課程では「Programming の仕事と研究とをなんとか両立させる」ということに注力していたし,学部ではとにかく外国語と数学に力を入れた。)

その甲斐あって,基本的に口頭発表においてはみんなにちゃんと聞いてもらえてる(気がしている)し,poster 発表で best poster に選ばれたこともあった。いまのところ“発表が「うまい」人”だと認識されているとおもう。(もちろんだいたい 3 回に 1 回は失敗する。)

まぁそんな日々も,先日の学振 PD の申請書提出でいちおう完結し(あれで採用されれば,3 年間の努力が実ったと言うべき。。。。採用されますように。。。。),それ以降の数年間はしばらく仕事を遂行する技術を磨くことに注力している(するつもりである)。実際,僕は本当に仕事が遅いのだ。。。。


発表には大きく分けて 2 種類ある。一つは,口頭発表(いわゆる talk / presentation)であり,もう一つは論文である。これらは目的が全く違うので,その構成手法も全く異なる。ちなみに poster 発表はどちらかというと口頭発表に近く,乞食文お金の申請書は 2 つのほぼ中間である。

口頭発表は,日本語でいうところの「インパクト」(impact) が全てである。最低限ここちよく聞いてもらわねば話にならないし,もちろん内容に興味を持ってもらうことが最重要である。ここちよく聞いてもらうためには,円滑に発表を始めること,ウケを狙うこと,聞き取りやすさ,発表資料の見やすさ,指し棒と送り機の使い方,身振りと視線,質問への対応,時間を厳守すること,など様々な要素が大事である。そして,内容に興味を持ってもらうには,結論から入ること,一番気になることを前に持ってくること,理解してほしいことを何度もいうこと,行程表を示すこと,あらゆる枝葉をとにかく削ること,そしてなにより発表の内容が面白いこと,が重要である。

一方で論文は全く違う。よみやすさのために組み版を工夫する必要は(あまり)ない。同じことを何度も言ってはならない。枝葉を全て網羅しなければならない。論文において重要なのは(言うまでもなく「内容が面白いこと」であり,それ以外に),とにかく論理的に・正確に・緻密に話を進めることである。口頭発表では正確さはわりとどうでもいいが,論文では正確さが命である。そのほかにも,まず概要で全てを説明すること,導入・前提・手法・議論・結果・結論導入・前提・手法・結果・結論・議論といういわゆる論文の構成になっていること,言いたいことを全て盛り込むこと,結果を理解するのに有用な図表を提供すること,結果を判断するのに必要な情報を全て盛り込むこと,である。

だから,たとえば口頭発表の『直し』(いわゆるよじかんの工程)では,話の流れが頭に入りやすいか,図表が見やすいか,などに焦点を当てる。一方で論文の『直し』(だいたい7~12回ぐらいやる)では,議論が正確かつ論理的であるか,情報が全て書かれてあるか,に焦点を当てる。


とまぁここまでが話の枕であり,同時に議論の中心である。以降で,最近ちょっと思ったことについてちょろちょろっと書く。


Blog はどっちだろう。たぶん,論文に近い。あるいは,乞食文とちょうど同じだろう。

口頭発表型の blog もある気がする。でも僕はあまりそういうのを読んでいない。口頭発表型というのは,『侍魂』に代表される一時期の text site の様式であったし,最近はそういうのは ustream や slideshare,そして何と言ってもニコニコ動画に全てを持って行かれた気がする。

やはり読みたいのは,論文型の blog の方である。ぱっと思いつくのだけでも,G.A.W. (閉鎖済み)だとか,ちきりんさんkawango さん発声練習の人,など,いくつかの「時々読む blog」が思い浮かぶ。

Blog は,当然論理的な方がいいし,議論の前提がちゃんと書かれてあったほうがいい。言いたいことが全て盛り込まれていたほうが著者の思考に近づける。もちろん口頭発表の側面も持っており,結論から入ったり,ウケ狙いがあった方が読む気にもなるが,しかし同じことを何度も書かれてもしつこいだけだし,行程表も必要ない。(必要なら戻れば良い。)

結局,非学術分野では,発信の手法として,blog と口頭発表という 2 種類があり,それらはかなり性質を異にするだろう,という気がした。


ちなみに,この文章はあくまでも「日記」である。永遠に日記であり,blog ではない。評論でも論述でもなく,随筆である。論述だったらこんな細かな注が途中で入らないような論理を構成する必要があるし,議論をもっと緻密に進めるし,何よりちゃんと推敲もする。(随筆なので推敲してません。)思ったことを好き放題書くのがみしょのねこごやの日記である。

じゃあ最後に日記らしいことをかいておこうか。

猛暑!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

今日のいろいろ

今日は,昼過ぎに起きて,近所の Cafe で仕事(=明日の研究打ち合わせのための準備)をした。昔の彼女に似た横顔の人が居たが,まぁ東京にいるはずがないので別人。仕事はやや先行きが不透明。「必ず解があるわけではない」ということが分かったから。ただし 1 つ見つければ勝ちなので,あとは運次第。ということを明日は議論する。

そのあと玲子さんの主催するれこの産地巡礼旅ごはん。(平たく言えば報告会てきなやつ。)(link 先は Facebook)に参加するために近所の house に行き,報告会そっちのけで読書をしてダベって帰宅。


算数の面白い問題

渡辺由佳里の作品 sampleの中の或る記事に載っていた算数の問題が面白かったので share したい。

ほんの少し昔のこと。怠け者イワンがロシアの橋の妖精トロールに会いに行った。そのときの話を聞かせてあげよう。

怠け者イワンは独り言を言った。
「みんな仕事を見つけるか,さもなくはトロールと取引しろと言うけれども,トロールが僕を金持ちにしてくれるなんて思えないなぁ」
そう言い終えるやいなや,近くの橋からトロールが現れてこう尋ねた。
「イワン,おまえは金持ちになりたいんだね」
イワンはうなずいた。
「じゃあ,おまえが橋を渡るたびにポケットの中にある金を倍にしてやろう。おまえは,橋を渡るだけでいい」
早速橋を渡り始めたイワンをトロールが呼び止めた。
「こんなに気前よくしてやっているのだから,私の苦労にちょっとした礼をくれてもいいんじゃないか?どうだい,橋を渡るたびに8ルーブルくれるってのは」
イワンはトロールの申し出を承諾し,いそいで橋を渡った。ポケットに手を入れると,魔法のようにお金は倍になっているではないか。そこでイワンはトロールに8ルーブル投げ渡した。2回めも3回めもポケットの中の金は倍になったが,3回目に8ルーブルを渡したところ,ポケットの中は空になっていた。
トロールは大笑いをして姿を消した。

さて,タチアナも自分の運を試してみようと思った。
しかし,3回橋を渡り終えたところで,彼女はトロールにこう叫んだ。
「なんてことよ!ミスター・トロール,私の手持ちのお金はあなたに会う前とまったく同じじゃないの。前よりも金持ちでもなければ,貧乏でもない。とんでもない橋の魔法だわ」

タチアナとイワンが最初に持っていたお金はいくらだったのかな?

2問目の図

2問め。この図において,すべてのドアを一度だけ通るとして,全部のドアを通ることは可能か?

正解は後ほど。


弱者とは誰か

誰が弱者か?という blog 記事が面白かった。彼のように,このネタ画像をここまで咀嚼して思考を展開させることが,僕にも可能だったとしたら,僕の人生ももう少し楽しかったろうなぁ。そううらやましく思って著者の名前を見てみたら,極東 blog の finalvent さんだった。さすがである。うらやましい。

ちなみに僕は,譲りたいときには譲るし,譲りたくないときには譲りません。気分の問題。


れこの産地巡礼旅ごはん。の感想的な何か

料理は美味しかった。あまり量が出ないだろう,と思って,その前に pan を食べていったのは失敗だった。(少し余らせてしまった。。。)

玲子さんが摘んだという烏龍茶をいただいた。普通の烏龍茶と違って,すっきり抜けていく。Vin blanc の高いやつ(貧困な語彙。。。)みたいな抜け方。普通の烏龍茶だと安いやつみたいな若干の後残りがあるのだけれど,それが無かった。飲みやすい。飲みたい。おいしい。理由は,酸化が進んでいなかったから,あるいは,tannin の抽出が十分進んでいなかったからだろう。前者に由るのだとしたら,市販の烏龍茶(酸化防止剤として vitamin C が添加されている)との製法の違いがわからない。あるいは市販の烏龍茶葉でも浅く煮出せばああいうすっきり後味になるんだろうか。玲子さんが報告発表の中で色んな人の色んな言葉を紹介していたが,僕はその中の「結局美味しいかどうかが一番大事」という立場が一番好きだ。

玲子さんはどこに行って何をして何を見て何を聞いてきたかを報告してくれた。知識としての情報量は多かった。何を考えたのかはあまり語られなかった。情報量が多かったのだろう。莫大な情報量を咀嚼するには,文章にせねばならない。Blog や日記は,そのためのよい方法である。かなり難しい仕事となるだろうが,reco0417.blogspot.com/ の更新を期待している。

ところでこれは僕の日記なので,彼女へのお礼もしたいことだし,僕が何を考えたのかについて書くべきだろう。

第一に,資本主義とか貨幣経済は今後どうなるのか。最近どこかで「貨幣経済が終わって評価社会が来る!」みたいな話を見た気がするが,全く説得力の無い,残念な内容だったので無視することにして,じゃあどうなるのか,ということを,帰り道で考えていた。そもそも資本主義は強い。資本主義の対抗馬としては社会主義があったが,今から考えれば資本主義が勝つのは当然である。"System" という面で見れば,社会主義は中央集権構造であり,資本主義は自立分散型である。科学の発展,制度の発展,あるいは技術(具体的には Internet)の発展を見ると,大体が中央集権から自立分散へと「進化」している。自立分散の機構が進化したその先,というのは,未だ発明されていないのではないか。誰か知ってたら教えてください。それとも科学が還元主義から創発・統合へと進化したような枠組み移行が,経済でもあり得るのだろうか。一つ考えつくのは,貨幣制度が中央集権から自立分散へと移行する,ということだ。「貨幣」というのは日本ですら千年以上の歴史があるわけで,それが変革されるわけがない。Local には,例えば地域通貨だとか,あるいは貨幣に依存しない交易「コレとコレを交換しよう」「コレするかわりにアレしてあげる」が生まれているけれど,それは「貨幣発明以前への退行」に過ぎず,貨幣経済を代替するものではない。単なる抜け穴にすぎない。評価社会にしても結局価値評価の基準は必要な訳で,それはすなわち貨幣である。ということは貨幣自体は滅びるはずが無い。あり得るのは,例えば各人が自分の通貨を発行する仕組みである。今のいわゆる point service が発展する。例えば Suica の中の「円」と日本円との交換比率が 1:1 でなくなる。あるいは "1 みしょ" という通貨を作って,1 みしょは(たとえば)2500 円と交換されるけど,あるいはそれをみしょに払えばみしょが例えば 1 時間仕事をする。うーん。面白い。あ,これ面白いな。これ来るかもしれませんね。そうなるとどうなるのかな。面白いな。

第二に,農協は解体されないのか。日本の農業を支配している悪の組織である農協を滅ぼせば何か良いことがあるのではないか,という気がした。というか,もっと強い何かが,農協よりも「すごく良い」何かを作ってくれないかなぁ,ということを考えていた。農協というのは,金融機関+流通組織+農業知識の総体なのだけれど,資本主義的でないので非効率である。たむけんが「楽天?」とか言ってたけど,たとえば外資系金融と物流組織みたいなのが組んで,もっと(資本主義の立場から)風通しの良いものを作ってくれれば,何かが変わる気がする。どう変わるのかは多分僕よりも農業関係者の方が詳しいだろうから彼らに任せる。資本主義に従う形になるので,消費者にとっては玲子さんの望む方向になるかはわからないけれど,農業生産者だとか運営組織(金融会社と物流会社)にとっては良い話だろうし,なにより実現可能性がとても高いと思う。ってか多分もうどっか計画してんじゃないの。

最後に玲子さんに「Babylon system についてみしょがどう思うのか知りたい」みたいなことを言われたのでそのことを少し。

そもそも,名前をつけるというのは非常におぞましいことである。風邪。神経衰弱。神経症。膠原病。鬱病。Freemason。Illuminati。御用学者。第二新卒。PACS 婚。アラサー。非モテ。リア充。電博あるいは広告代理店。フリーター。アルバイト。終身雇用。Nomad work。名前をつけることにより,"system" が具体化される。そして批判や賛同や羨望の対象となる。みなさん「リア充」という単語ができる前は彼らのことをどう呼んでいましたか?単語ができる以前も彼らを批判していましたか?しかしそういう「名付けられたもの」に対して物を言うのは極めて安易である。大体の物事は,本質的には名前の付けられないものに発している。Nomad work に賛同し,終身雇用制を批判するのは,本質を見誤っている。その本質は,それを基盤としている租税制度に,そして社会保障制度にある。真の「敵」は,会社ではなくて,そのような制度を作る政治家(を応援している企業連合(の利益を最大化したい株主(の背後にある……)))である。しかしそれでは敵が大きすぎるし,つながりが難解すぎる。あるいは最後には「終身雇用制よりも良い体系が発明されていないこと」,そして究極的には資本主義に行き着くのであるが,しかし資本主義は「所与の条件」であるから仕方が無いし,「発明されていないこと」を非難できない。だから分かりやすい大企業あるいは「ブラック企業」を批判してしまうのである。そしてそれで満足してしまうのである。「報道番組がバラエティ番組化した」(すなわち『ニュースステーション』が発明された)のと同様に,単に自己顕示欲を満たしているだけなのだ。

結局のところ,"babylon system" という『何か』を批判するのは,本質を見ずに表層だけを批判して,とりあえずそれで自己顕示欲を満たしてしまっているだけである。「みんなしゃべりたがる」「熱い」のも,結局は onanie に必死なのである。熱く議論するのはどうでもいいのだ。しゃべっていないで,「実際に目の前にあることを 1 つずつやっていく」のが重要である。もちろん,玲子さんの話に出てきた人たちは,みんなきっと「実際に目の前にあることを 1 つずつやっている」人たちのはずで,僕が彼らのことを批判するのはとても気が引けるのだけれど,そんな放談で「ガス抜き」をするのをやめて,「秘めた思いを仕事にぶつける」と,もっとよい仕事ができるんじゃないかな,と思う。あるいは放談でガス抜きするんじゃなくて,人々にちゃんと伝わる形で,声を高くあげていくのが良いと思う。ちゃんと伝わる形で人々を啓蒙するのであれば,"Babylon system" なんていう単語は不要だろう。

ちょっと追記。僕が権力者の側,あるいは "system" の側に居るのだとしたら,表層上 "system" の側にあるけれども "system" を本質的に破壊するわけではない,「敵にしやすそうな」何かを,人々の仮想敵に仕立て上げることで,批判と崩壊を回避しつつ人々(大衆)の不満を「ガス抜き」する,という作戦に出ると思います。もちろん "system" は集合体なので,実際の "system" の戦術はこのような理想的・単純には行かないだろうけど。

冒頭の問題の答え

1 問め。例えば 6 рубль から始めたとすると,1 回目で 6→12→4,2 回目 で 4→8→0 となって,減るのが早すぎる。1 回目で6 рубль 残る状態に持っていけばよいので,1回目に橋を渡った後には 14 рубль になればよい。

2 問め。建物の外から始めたとしよう。建物の中への扉は 9 箇所なので,最後は建物の内で終わるはずだ。逆に,内から始めれば外で終わる。それをふまえて,じゃあ今度は右上の部屋から始めたとしよう。右上の部屋には 5 箇所の扉があるので,右上の部屋から始めたら,右上の部屋以外のところで終わるはずだ。あるいは右上の部屋以外のところから始めたら,右上の部屋で終わるはずだ。ということは,正しい道筋は,右上の部屋→建物の外,あるいは建物の外→右上の部屋,のどちらかである。しかし,左上の部屋も扉は奇数個しかないので,その道順ではその 5 個の扉すべてを通ることはできない。