みしょのねこごや

Diary - 2018年4月

というわけで(先週末に) website を刷新した。刷新とは言っても,内容が変わったわけではない。外観を作り直して,そして backend の CMS もまたゼロから書き直した。

外観を前回いじったのはいつだったかな,と Internet Archive を掘り起こしてみると,どうやら 2005 年のことらしい。もう 13 年前だ。CMS の書き換えも 10 年ぶりのことになる。13 年前と現在とを比べてみると,web 周りの技術もものすごく変化した。ようやくこの website も時代に追いついた感じがある。

外観を書き直したのは,smartphones からの閲覧に対応したかった,というのが大きい。13 年前はガラケーに対応していればよかった(つまり "tty" 用の CSS を用意しておけばよかった)のだけれど,もはやガラケーで web を見ることは少なくなり(しかも CSS における tty 指定が obsolete になり)代わりに "responsive design",つまり表示装置の画面の大きさを取得して,それに応じて使う style を変更する,みたいな技術が当たり前になった。というわけでようやくこの website も smartphones から快適に読めるようになった。とはいえ smartphones 用の画面はまだ十分に検証していないので,iPhone で実際にやってみて調整していこうと思っている。

外観と言えば,最近は web 用の font が無料で使える時代になったので,それを試してみた。日本語の表示がちょっと遅いのはそのせい。飽きたら標準に戻すかもしれない。そのほかにも 13 年前に比べると,数式の表示技術も大幅に進歩した(というか 13 年前には使われてなかった)し,同様に program codes の表示も手軽になった。まあこれらはこれまでに逐次的に導入していたので,今回の変更点ではないのだけれど,しかし 10 年というのは何もかもを変えてしまうなあと驚いている。

とまで書いてすっかり忘れていたのだけれど,今回から JavaScript を「ふつうに」使うことにした。10 年前はガラケーからも読めるようにしたかったので,たとえば日記の comment 書き込みのときに「書き込み画面」みたいなものに移動しなければならなかったのだけれど,今回ガラケー対応を捨てた結果として(&通信速度が大幅に向上した結果として),画面遷移なしで comment が書き込めるようになった。あとは時刻の表示も JavaScript にやらせるようにした。まあしかしこれは 10 年前にも普通に使われていた技術だし,本当に簡単なことしかやらせていない(AJAX すら使っていない)ので,たいしたことはない。

外観は刷新したけれど,内容はほぼ変わっていない。というか変わりようがない。Physics の内容が増えてきたので整理した(&dropdown menu を導入した)ぐらいだ。どの言語で書くかという問題も紆余曲折を経て,今の形,つまり Physics は英語のみ/それ以外は日本語を中心とした色々な言語,で落ち着いた感じがある。

Backend の CMS の更新は大変だった。0.3 人月ぐらいかかった。当初public な static CMS を使って書き換えたいと思っていて,Lektor とか Hugo とかを試したのだけれど,それでも論文とか講演とかの整理のためにそれらを customize しようとおもうとまずはそれらの CMS を理解しなければならなくて,それならそういう public CMS に似せて,過去の code も流用して,ゼロから書いた方が早そうだと思って,Python で全てを書き換えた。ので大変だったのだけれど,Python は公開 packages が充実しているので助かった。そのおかげで 0.3 人月で済んだ感じだ。以前の codes は 2008 年から継ぎ足し継ぎ足し書いてきたので(幸い spaghetti にはなってなかったのだけれど),10 年間継ぎ足してきたものを 0.3 ヶ月(分の労働力)で全て書き直すことができたのは,public codes のおかげだ。あとは Python の書きやすさも大きい。Template engine もついに導入できた。Git 連携も導入したので,LaTeX で書いている CV を書き換えるとほぼ自動で website の論文・講演一覧も書き換わるようになった。ようやく時代に追いついた。

この日記を見返してみると,ときどき「白い箱」が出てくる。その中には,ישראל に行く前の,だいたい 10 歳から 28 歳のあいだのものえ,何かしらの理由があって捨てなかったものたちが入っていた。

あの白い箱がなくなっていた。なにもなくなってしまった。

中に何が入っているのか,もはや覚えていない。あれは Πανδώρα の箱みたいな,開けてはいけない箱で,自分の過去の記憶をそこに閉じ込めることで忘れてしまうための,覚えていなくてはいけないけれども忘れなければいけないことを閉じ込めておくための,そういう装置だった。

記憶がなくなった,ということだとおもう。これまでの,思い出しておきたかった記憶がなくなってしまった。

これからどうやって生きていけばいいのか,よくわからない。過去の記憶がなくなったところに新しい記憶を積み重ねていくことができるんだろうか。大事だったはずの部分がどこかにいってしまった人生において,たとえ刹那的に生きていくことが可能だったとしても,もう何も堆積しなくなってしまうのではないか。ものごとをとっておいたりしまっておいたりすることをしなくなってしまうのではないか。自分がどう歩んできたのかを忘れてしまったのに,ここから更に歩んでいくことができるんだろうか。

一度死んでしまった人はどうやって生きていくんだろう。

日記は,ここに 20 年前から残っている。それでも,残っているのは言葉にした部分だけで,つまり,過去の自分とのつながりの大部分,言葉にしていなかった,言葉に出来なかった部分を失ってしまって,ちゃんと生きていけるのかどうかわからない。

過去との紐帯が失われてしまった。もう実家とかふるさととかそういったものへの関心もなくなってしまった。今は大分市でこれを書いているけれど,もう佐伯市には生きたくない。箱が無くなったことそれ自体を,佐伯市ごと石棺の中に封印してしまうぐらいしか思いつかない。28 歳以前の僕はもういないので,18 歳以前の僕を佐伯市に閉じ込め,28 歳以前の僕を東京のなかに希釈してしまう,みたいなことをするんだろうか。

そこにあったはずの紐帯はもうなくなってしまった。なくなってしまったものをあれこれ言ってもしかたがない。だから,僕がたとえば突然死んでしまっても,あるいはふらっとどこかに行ってしまっても,それはもう仕方がないのかもしれない。中動的な意味合いにおいて,つながりは断ち切られてしまったのだから。

なんらかのつながりにちゃんとつながっていきていられるのか,そういう自信が,もうなくなってしまった。

「このまま飛行機が墜落してしまえばいいのに」と思いながら飛行機に乗るのは,記憶にある限り初めてのことだと思う。白い箱がなくなって,何を原点にして生きていけばいいのか,何を自分の根拠にすれば生きていけるのか,わからずにいる。

残念ながら飛行機は無事に인천に着陸して,고려대학교に滞在している。

日本を離れて少し気持ちが楽になった。日本にいると,原点にいるはずなのにそこに原点がない,という問題にいつも向き合わねばならない。日本にいなければ,目の前の現実を一つずつ処理していくいつもの日々を維持できる。半生が歯抜けになってしまっても,刹那的な生き方ならできる。

それでも,日々を積み上げていけそうにはない。しまうための箱がないのだから,しまうべきものを残しておくことなんてできないんじゃないか。しまうべき記憶を残しておけないのだから,日々の記憶にももう価値を見いだせないんじゃないか。

祖母からもらった手紙とか,昔の恋人との手紙や物とか,小学校・中学校・高校・大学の卒業 album だとか文集だとか,生徒会の記録とか,模試の記録とか,受験生のころにみんなで作った日めくりとか,中学のころに買い集めた冊子だとか東京でのOFF会の記念品とか,大学の circle でもらった色紙とか楽譜とか,博士号の学位記とか,が入っているはずだった。もはや正確には覚えていない。

全部無しになったんだから,もう全部無しにしたほうが楽なんじゃないか。実家とか家族とかいう概念ももう無しでよさそう。

つながりの維持をやめることにはわりと慣れている。適当にどこかをふらふらしているのでそういうものだと思って諦めてほしい。Internet は人々の距離を近づけたけど,それは人工的な紐帯にすぎない。人工的な紐帯を維持するのにも労力がかかる。過去とのつながりがなくなってしまったのに,僕がこれ以上人工的な紐帯を維持する必要もないだろう。結局,物理的距離なしではつながりは維持できないのです。