文章を書くには
文章を書くには,「書きたい」という欲求が必要である。
というと当たり前のことに見えるし,実際にかつてはそれが当たり前だったのだけれど,現在ではそれは非自明なことになった,つまり書きたいという欲求がなくても「文章を書く」という行為自体はできるようになった。
僕の祖母は長年にわたって日記をつけていて,40 冊ぐらいの日記帳が実家の倉庫に残っている。祖母が死んでもう 10 年が過ぎたような気もするし過ぎていないような気もするけれど(たぶん過ぎた),とりあえず「これは貴重なものだから捨てないで」とは両親に言ってある。それらの日記は言うまでもなく「書きたいから書いた」ものだろう。書かれたものは読まれなければならない。しかし,その「読む」の主体は,彼女にとっては彼女自身でしかなかったのだと思う。(もしかしたら子や孫が読むことも考えていたのかもしれないけれど。)
そのように,かつては「書く」と「(他人に)読まれる」ということは全く別のことであった。読まれるためにはどこか公開の場所に投稿しなければならなかったし,実際に書かれたものが人間に(特定少数でない人間に)読まれることもほとんどなかった。
しかし現代では,internet の発展によって,「書く」と「(不特定または多数の)人間に読まれる」という 2 つの物事の間の障壁は格段に低くなった。書かれたものを読まれる状態にすることが one click でできるようになった。
その結果,「書きたい」人間が文章を書くだけではなく,「読まれたい」人間が「文章を書く」こともできるようになった。これがいわゆる「日記サイト」あるいは「weblog」の時代に起きたことだった。
そして同時に,「書きたい」という欲求と「読まれたい」という欲求の区別が次第に曖昧になっていった。
それから時代は移り変わった。日本では mixi がその嚆矢であったと認識しているが,「読まれるための日記」という概念が生まれた。人々は,日記サイトから離れて weblog (ライブドアブログ,goo ブログ,exblog などがあった)に向かって,そこで comments を交換するように,つまり読まれることを強く意識するように,なっていったのだけれど,さらに流れは mixi という「読まれたことが可視化される場所」へと向かった。読まれることを目的として「書く」が行われるようになっていった。
その後,(日本では) Twitter が流行した。海外では Facebook が先だったと思うのだけれど,日本では Twitter が爆発的に流行し,それに Facebook が続いた。そこは,読まれることが確実に保証される世界であると同時に,(字数制限が厳しいので)「つぶやき」さえすればよい,という場所だった。そしてそれは状況を悪化させた。
これらは (A)日記サイト・weblog・mixi, (B) Facebook, (C) Twitter,という 3 つの groups へと大きく区分けることができる。(A) の 3 つの間には「読まれやすさ」において程度の差異が存在するけれども,それは quantitative なので無視してまとめることにする。(A) においては書いた文章が蓄積される。つまり○○の書いた文章の集合体として,stock として取り扱うことができ,読むことができる。1 つ 1 つの記事の間に文脈の連関があり,思想の継続がある。
(B) においてはそのようではない。もしかしたらこれは自明ではないかもしれないのであるが,しかし実際はその通りであるはずだ。○○の書いた文章の集合体,という視点では取り扱われないようになっている。逆に "timeline" という概念によって流れていくものとして,flow として取り扱われるような想定になっている。さらに,これもまた気づかれにくいことなのだけれど,(B) Facebook においては文章の見た目を自由に指定することができない。文字の font や大きさ,1 行の長さ,行間の空白,段落の開け方,背景や文字の色,などは,文章の読まれ方を左右する重要な要素であって,従ってどのような文章を書くかということと密接に関係しているのだけれど,それに対する支配権を失ってしまった。だから Facebook に書いた文章は均質の「読まれ方」しか出来なくなっている。
それがどのような読まれ方なのかというは後述することにして,とはいってももしかしたらただ読んでいるだけでは読み取れないかもしれないけれど, まず (C) もこのような設計になっている点を指摘する。つまり,Twitter でも,その見た目(とりわけ文字の大きさと 1 行の長さ)を自由に指定することができない。そしてさらに文字数制限によって,書かれる内容すらも Twitter に支配されている。
Twitter に書かれる内容というのは,思考の断片であったり,それほど強い意図をもたない「つぶやき」であったり,あるいは単なる文字の羅列だったりする。というか,Twitter には "tweet" が書かれる。すなわち,Twitter は "tweet" という概念を新たに生み出して,したがって Twitter には "tweet" しか書かれていない,ということになった (by definition)。それらは本質的に新しい概念であったために,当初は(つまり最初の 5 年ぐらいは)僕もそれに夢中になって,様々な "tweet" を生み出した。"Tweet" の概念は極めて迅速に拡張され,今思い出せるだけでも,時報,切り取り線,縦読み,連投 AA,footer,(非公式)RT,空リプなどがあり,necotter,favotter,あるいは rolling icon などの icon 芸など,様々な創造がなされた。それらは「文章を書く」というのとは全く別種の,文字による遊び「tweet 文芸」だったのだと思う。
何が言いたいのかというと,Twitter というのは文章を書くための場所ではないということだ。
ところが,Twitter でも「文章を書く」という行為をすることはできる。そしてそれによって「読まれたい」という欲求を満たすこともできる。しかしそこに書かれたものは文章ではなく,"tweet" なのである。したがって彼らは文章を書いてはいない。ただ「読まれたい」という欲求を満たしているに過ぎない。
いちおう注意しておくと,「tweet をする」という行為,つまり直前に述べた「tweet 文芸」も,「読まれたい」という欲求と表裏一体のものとしてある。しかしそれは「文章を読まれたいので文章を書く」というのではなく「tweet 文芸を見てほしいので文芸をする」という行為であることに注意する。つまり,この文章の主題である「文章を書くには」とほ別の世界の話である。
ここまで前提を丁寧に説明したので,もうあとはわかってもらえると思うので,「速を高める」ことにします。がんばってついてきてください。ついてこなくてもいいです。
そういうわけだから Facebook や Twitter に書かれているものは文章ではない。だから,そこに文章を書いたつもりになっている人は文章を書きたくて書いているのではなくて,ただ読まれるために書いている。承認欲求,というとちょっと変な意味合いがついてしまうけれども,書きたくて書いているのではない。
文章を書いていないし,なによりそれが stock として取り扱われないので,そのようなものをいくら書いたとしても,それによって思考は展開しない。自分の思考は発展しないし(発展したつもりになっているかもしれないが,しない。),他人の思考を刺激するきっかけとなることもない(そういうことが起きることを期待しているのかもしれないが,起きない。) timeline の流れの中で flow として消費されるだけの養分を,与えられた枠組みの中で生み出しているにすぎない。
Facebook や Twitter に書かれたものは,おそろしいことに,「意見」ではない。「論」ではなく「感想」にすぎない。Report ではなく感想文にすぎない。SNS というのは,そういう感情,感想みたいなのを適度に吐き出せてしまうところが勿体無いんだろうな
ということを が言ってたのだけれど,言ってみればそれら SNS というのは人間の「読まれたい」という欲求を養分として吸い上げているにすぎない。もちろんそれでいろいろなものが生まれて,たとえば tweet 文芸であったり,人と人とのつながりであったりは確かに生まれて,僕もその楽しさや意義は十分に知っているのだけれど,しかし「文章」は生み出さない。「書き手の思考や感情がほぼ表現し尽くされているひとまとまりの統一ある言語表現
」は生まれない。これは大辞林による「文章」の説明であるが,僕の言いたい「文章」とはまさにこのように表現される概念である。英語では "composition" "writing" に近い。
だから,Twitter で文章を書いた気になって,意見を述べた気になっている人間もいて,そういう人を見ると,残念だなあ,と思う。あなたは何かを述べたつもりになっているけれども,何も述べていないし,誰もあなたの述べたいことを理解してはくれないのだ。しかし,そのような勘違いをしてしまうのは理解できるので,「残念だなあ」というように思う。
むしろ,他人の tweet を RT する人のほうが見ていて嫌になる。それが「tweet文芸」ならば良いのだけれど,そうではない場合がある。Tweet を文章だと勘違いして,文章を読んだ気になって,その文章を理解したつもりになって,その文章を他人に紹介したくなって RT するような人間の気持ちがわからないし,そういう人間とはあまり知的な関わりを持ちたくない。それは文章ではなく,したがってあなたは理解したつもりになっているけれどもなにも理解していないし,あなたはそれにすら気づいていない。その程度の知能なのか,と気持ち悪くなるけれども,まあ無関係な人間なので放っておくことにする。しかしそういう人間を見たくは無いので,Twitter はあまり使わないようにしているし,自分の tweet が RT で拡散し始めたら tweet を消すようにしている。
Twitter で「議論」をしている人たちも滑稽だ。「Twitter で議論はできない」というのは良く知られた真理で,それにはここに述べたような根拠があるのだけれども,とにかく多くの人は実感として「Twitter で議論はできない」ということを知っている。それでもそれを知らない人たちが,あるいは「自分ならできる」と思っている(考えの浅い)人たちが議論をしているのをみると,やれやれ,という感じになる。議論はやっぱり Skype でやるのがよいとおもう。
みたいなことを,担々麺?を作りながら考えていた。知的営為のために重要なのは,文章を stock として蓄積する,ということだと思う。そしてこの文章もその蓄積の一つである。
僕が外部の blog services を使わずにこの website での日記にこだわっていること別の目的では外部の services を使っている。も,そして「日記」という表現にこだわっていることも,「書く理由」まで含めて,以上のような理由に基づいてる。