みしょのねこごや

Diary - 2014年7月

Six men in a cafeteria. One from Deutschland, one from U.S., and the rest are 日本人. The Deutsche man start to chat about the reinterpretation of the constitution by 日本's government; he and the American guy know very well about the news, while two of the 日本人 do not know the news and how the government modified their interpretation.

We do not need to know the news, because we can do nothing for or against it.

I do not need to give thoughts to the news, because I do not have anything to do with it.

I hope that I do not need to, and I really hope that I do not have.

I should write down what I think today even though I have less time and many things I want to do.

I have to pin down two articles. The first one is on (notorious) Hatena anonymous diary; I generated a cache, so-called 魚拓 (fish print), not to lose this historically important note by the author's deletion. In the article the author says that he is the owner of an Internet news site (perhaps "まとめサイト") for right-wing 日本人; Google/Amazon advertisements are on the page, which yield earn 3,000,000 JPY per month. He picks up news from media in 中国 or 한국 which would interest right-wing guys, and fabricates some comments on the article to encourage readers to leave a line.

A mass-medium provides news with distortion, or at least misleads people by providing biased news, not for its thought/Ideologie but for benefits, is really interesting for me. I learned it in my school days. I was a really good student, as you know; I learned that, during the era of World War II, newspapers supported the militaristic government not because they liked wars but because they wanted money, because they wanted to attract people for money.

Another article (or 魚拓), on a まとめサイト, is an example of such articles. I do not have to explain what is written in the article, and what happens in the comments section.

These two articles are really, pretty interesting for me, because, of course I know mass-media will do such harm in war-period, I have never thought that a person will do the harm for money. I have never thought that the Internet can be used in such a manner. I have never thought that the next war will be fought by a common person on the Internet.

I have a word in 日本語 which suits this situation, which I do not know how to translate to English: "末期".

みしょが消えた,のように言われることがあるけれども,消えたのは単なる Twitter の account です。僕はずっと研究所や柏市の自宅に居るので,じゃあ,消えたのはあなたなのでしょう。

Humanities leaning on SNS!

Internet 上に限っても,僕はここにいて,猫なので,猫小屋のなかにいる。


Beginning to write diary articles in English, I face on some expressions that I cannot write in English. I will sometime write on those expressions.

When you are a high-school student in 2010s and learns the world history, you will wonder why nations, a very old-fashioned system, remain in this century.

Unfortunately I was so in 2000s, not then realized the Informational revolution, and of further unfortunates I did not take world history classes, and therefore, I did not wonder. (I should have took world history, 日本史, and biology in addition to geography, chemistry and physics. Why does not 東京大学 require all of these subjects?)

And, when I relearned (actually not "re"), I thought that nations will break up soon, yet the wisdom in New Zealand told me that it would be after my (and his) death.

With a slight thought, you will find that a nation is a concept which consumes you for its survival. People had to accept it before 2010s, but now, as the Internet is an alternative to bureaucracy (You are familiar why bureaucracy was invented.), nations are just an obstacle for us. I accept that authorities for law enforcement is certainly necessary, but it seems to be harmful when an organization (i.e., the nations) monopolizes it.

No conclusion, or no claim; I just wanted to write down a note which I will read again to remember the days fondly in which we could live our lives without any fear of wars.


Asyl としての川原と田舎とシェアハウス,という概念について考えていた。

いい人生だった。。。

重要なことは,この国で生きてきて未だに逮捕されたことのない人間はつまらない人生を送ってきたつまらない人間なのだ,という認識だと思う。

こう書くと異常者だと思われるけれども,僕はそのように思う人間を知能の未発達な人間だとバカにしているので,おあいこなのです。

刑法基礎論を真面目に勉強したことがないのであやふやですが,社会で合意された規範と結びつかないような公務執行妨害や住居侵入に基づく強引な逮捕は,刑法体そのものへの信頼をうしなわせる,ということだと考えています。

まだ書けないことが多いけれど,いつか書く機会があると,意味があるのではないか,と考えています。


昨日の日記の意味も,まだしばらくここには書けない。。。いろいろある。。。


さっき見かけた人が電車に飛びこんだっぽい。東京の平和な日常だ。


Saw sunflowers from a train.

Sunflowers are the symbol of summer. We seeded sunflowers in the elementary school, and saw many sunflowers in summers, being surprised by its powerful growth.

I have not seen sunflowers for, perhaps, more than ten years.


Exceeding his/her assigned time ほどイライラするものはない。。。


The wisdom in NZ likes poems in 日本語; I do not know poems, I have hardly read poems, I cannot understand them well, but it is rather happy that I could know many poems as lyrics of choir songs.


Sentences in English seems declaration or discussion.

日本語で書いた言葉には詩性が宿ると思う。

修行してきた


昨日,あの山手線に乗らずに駅で少しだけ待っていたら,あの人が電車に飛び込むところが見られたのだろうか,という気持ちが,厳然としてある。


一度書き込んだものを消す,ということの感覚がわからない。手違いだったり,誤字を修正するならともかく。

2 ちゃんねるで長く過ごしたからだろうか。削除は甘えだと思う。

削除してもしばらくするとまた復活する,とか,面白そうだ。


そいえば,工学系物理の大学院生に「ILC」って言っても通じなかったんだけど,そんなかんじの周知度でいいんですかね?


日本語なのはガラケーから書き込んでいるからです。

土曜日は,人が死んで,新幹線が止まって,一日大移動でした。

一昨日は,数時間 bus にゆられて,修行をして,懇親会で飲みまくって,wine をがぶ飲みしながら talks を聴きました。

昨日は,ゆっくりして,wine をがぶ飲みしながら talk をしました。

今日は,talk をしたあとで,重い荷物を引きずりながら登山をしたら竜宮城に着いて,一期一会で,にいちゃんが気前が良かったので,お気持ちをしました。

明日は山歩きをして,研究をします。

もう二度と会うことのない人,というのがたくさんいる。

それを残念だと思うときに,生きているという感じがする。


なんか最近毎日登山してる


海が見える……


下山した。長袖長ズボンに backpack と sneaker,さらに 2L 水もあると,突然の登山に対応できて便利。


New place; hit a new place I want to come again hopefully; had a really good time again with people who I will perhaps never meet again.

It seems to me that Japanese people who did not experience the "bubble" era of Japan are on my side; otherwise they are enemies.

文豪のようなことをしている。


6 年間の様々な御縁への感謝と,縁切りの祈願。

結婚して離婚した人からいろいろな話を聞いた。結婚は勢いでやらないとできないし,結婚はしたほうがいいけれど,養育費の負担が大変らしい。

檻の中にいくらよいものがあっても仕方が無い。

街を見下ろす橋の上で海を見ながら仕事をしている。炎天下。


大学は,四年後に何になれるか,を明確に打ち出すと良いと思う。

と,環太平洋大学の広告を見て思った。教育経営学科は「学校の先生に」,国際教育学科は「真の国際人に」,体育学科は「athlete に」,と書かれている。国際教育学科だけ具体性がないので,その学科が一番不人気,低性能なのがわかる。

東京大学ならば「日本の最高峰たちと友達に」だろうし,早稲田大学ならば「コピペしかできなくても大卒に」だろう。よい指標だとおもう。


My strategy seems to be correct, and the first operation is now being completed. I would like to be ready for the 1945.

いつもの肉を食べてきた。これから足を洗います。

とてもお世話になっている教授がいる。

とてもお世話になっている教授,ちゃんと数えてみると 3 人ぐらいいて,そのそれぞれからそれぞれの意味でお世話になっているのだけれど,そのうちの 1 人の話です。ちなみにとてもお世話になっている准教授も同じくらいいて,でもそれは「とてもお世話になっている」という言葉では足りない。

彼はとても自由に見える。「懇親会」などという飲み会にも,参加したくない時には参加しないし,参加したいときには参加しているように見える。さらに日本物理学会にも入っていない。それでも,東京大学で教授をやっています。

もちろん彼はものすごい量の,それも多分野にわたる業績を持っていて,あっちにいってもこっちにいっても彼の名前の付いた論文に行き当たる。こんなこともやってるのか,と,かなりウッとなる。そのものすごい量と質の仕事で,東京大学の教授をやっています。

これらの事実から,僕の今いる業界は健全な業界であることがわかる。政治に力を入れなくても,偉い人や偉い団体に媚びなくても,同業者と学問の意味で交流をして,素晴らしい業績をあげれば,それをみな正しく評価してくれる,ということがわかる。その意味で,懇親会などに出ずに飄々と帰って行く彼を見ると,この業界はいいな,という気分になります。


日本物理学会というのは本当に異常な学会で,例えば学会の年次大会が中止になっても参加費を一切払いもどさない。いったいあの何千万というお金がどこに行ったのか,気になりますが,僕はそのお金を払っていないし,そもそもそのような異常な組織の会員ではないので,気にしないことにしています。また,このことから,その組織の会員は,多少の不明点があっても何も声を上げない,体制に従順な人間であることが分かります。知性が低い。

もちろん日本物理学会に入ることの利点もあります。それは,会員であれば誰でも学会発表ができるということです。年会費と参加費,計 1〜2 万円を払うことによって,『日本物理学会員』という肩書きと,『研究発表』という業績を得ることができる。このような形でお金を払って業績を買っている大学院生は世の中に多くいることだろうと思います。

それからもう一つ利点があって,学会誌が毎月送られてくるらしいです。論文すら PDF で電子化されたものを読む現代において紙媒体で送ってくるというあたりに老害を感じますが,なかなか面白いらしいです。ただ,毎月研究室に大量に同じ雑誌が届くので,やっぱりみんな体制に従順だなぁ,という感じがします。

まあ,最近は研究費(つまり税金を財源とするお金)で学会費が払えるらしいので,1 万円ぐらいなら日本物理学会に分け与えてやってもいいのかもしれません。が,僕はケチなのでそのようなことはしていません。


他の分野であると,学会員であることが権威だったり,懇親会で政治力を発揮することが就職の上で重要だったりするのかもしれませんが,素粒子論の業界ではそのようなこともなく,さらに前述の教授よりも過激な人がその優れた業績によって就職できたりしているので,やはり素晴らしい業界であり,この業界にいることを幸福に思っています。


翻って考えると,理研の例の事件というのは,無能な人間がその政治力だけで博士号を取得し,研究職に就き,多額の研究費を使えるようになった,ということの帰結でしょう。そのようなことは素粒子論の業界ではまずありえないと思いますから,その意味では安心です。ただし,博士論文の審査がザルなのは,どこの業界でも同じであるようです。博士号を取りたい学生にはなんとか博士号をあげないと,いろいろマズいことがあるらしいです。詳しくは知りません。

ただし,もう一歩進んで考えてみると,理研の例の事件というのは,科学者(あるいは大学・研究機関)が世間に擦り寄りすぎたことの帰結のように見えます。割烹着を始めとした数々の演出は,明らかに世間へのウケを意識したものでした。もう少し正確に言うと,研究に興味の無い人間が,娯楽の一つとして消費するために行われた演出でした。たとえば上野動物園のパンダの出産,多摩川に現れたアザラシのタマちゃん,のような形で消費されることを意図したものでした。

科学者は,税金を原資として研究を行っているのであれば,国民を意識しなければなりません。その意味で,科学者は国民に擦り寄る必要があります。ただしここでいう国民というのは,主権者として科学行政への目を光らせている国民のことであり,科学政策の策定に積極的に関与しようとしている国民のことです。科学研究の成果を観察して「投資すべき科学」と「投資すべきでない科学」を峻別することのできる国民のことです。そうでない国民にいくら媚びても,それは本来研究活動に使われるべきであった労力を芸能活動に浪費していることになり,税金の無駄遣いになります。

ここで,世間に対して媚びることと,科学好きの市民に対して一般講演をすることとは区別する必要があります。前者は芸能活動であり,後者は教育活動です。大学の教員は,生涯学習・市民教養の涵養などの役割も期待されているでしょうから,そのような教育活動は,芸能活動,および研究活動とは別にして考えなるべきであり,研究活動と教育活動のどちらに重きを置くのかは個々の研究者に任せられているとされるべきでしょう。そして同時に,その教育活動は政治活動・芸能活動とは区別すべきだと考えます。


ところで,最初の割烹着の話で世間が盛り上がったことは,つまり世間の側は科学研究の成果を正しく受け入れる素地を持っていない,ということを示唆しています。むしろ,世間は科学研究の成果を「娯楽として消費」することを欲している,と考えます。そのような世間に対して研究の話をすることに教育的効果は全くないでしょう。現状において,科学者は,世間の方を向く必要はなく,象牙の塔に閉じこもっているのが適切であるように見えます。

ここ 10 年ぐらいの間に,科学の「アウトリーチ」「科学コミュニケーション」という言葉を普通に使っている人間は感性のないクズで,"reach" は動詞的な意味で用いるべきだったり,あるいは「科学コミュニケーション」では scientific communication なのか communication on science なのか communication with/trough science なのかよく分からないというか実際のところ "communication" という単語があまり相応しくないような気がしますから,本来は「科学吟遊」「流しの科学者」のような日本語を発明すべきだったと思いますし,妙なカタカナ語を持ってきた結果として概念自体が空虚なものになったと思いますが,それはさておき,そのような何かという空虚な概念が新たに発明されて,そこに人的資源が多く投入されました。が,その結果として得られた最大のものが,STAP 細胞を巡る異常な事態だったわけですから,何かが間違っていたと考えるのが素直な態度でしょうし,そのまま「アウトリーチ活動」を続けるのは反省の無い無責任な態度だと思います。僕はそこまでの熟考をした上で「アウトリーチ活動」をするだけの思い入れもありませんので,そのようなことからは手を引こうと考えています。

Twitter をやめた理由の 1 つは,そのような世間を相手にするのが嫌になったからです。


京都で研究会に参加している。今日の飲み会はなかなか有意義だったので,その最中に考えたことを,洗濯が終わるのを待っている間に長い日記を書いてしまった。あと 10 分で洗濯が終わります。

久しぶりに長い日本語の日記を書きました。これは日本語で書くべき内容だったと思う。


とまで書き終えたところで Wikipedia を見たら Science communication という項目,あるいは "outreach" という単語があったので,そのような英語があるらしいけれども,しかしやっぱり science communication というのは(名詞の連続だし)あまり概念として理解できない。もうすこし精緻な言葉を使うべきだと思うのだけれど,空虚な概念とはあまり関わり合いになりたくないので,ダサいなあと思いつつシカトすることにします。