とてもお世話になっている教授がいる。
とてもお世話になっている教授,ちゃんと数えてみると 3 人ぐらいいて,そのそれぞれからそれぞれの意味でお世話になっているのだけれど,そのうちの 1 人の話です。ちなみにとてもお世話になっている准教授も同じくらいいて,でもそれは「とてもお世話になっている」という言葉では足りない。
彼はとても自由に見える。「懇親会」などという飲み会にも,参加したくない時には参加しないし,参加したいときには参加しているように見える。さらに日本物理学会にも入っていない。それでも,東京大学で教授をやっています。
もちろん彼はものすごい量の,それも多分野にわたる業績を持っていて,あっちにいってもこっちにいっても彼の名前の付いた論文に行き当たる。こんなこともやってるのか,と,かなりウッとなる。そのものすごい量と質の仕事で,東京大学の教授をやっています。
これらの事実から,僕の今いる業界は健全な業界であることがわかる。政治に力を入れなくても,偉い人や偉い団体に媚びなくても,同業者と学問の意味で交流をして,素晴らしい業績をあげれば,それをみな正しく評価してくれる,ということがわかる。その意味で,懇親会などに出ずに飄々と帰って行く彼を見ると,この業界はいいな,という気分になります。
日本物理学会というのは本当に異常な学会で,例えば学会の年次大会が中止になっても参加費を一切払いもどさない。いったいあの何千万というお金がどこに行ったのか,気になりますが,僕はそのお金を払っていないし,そもそもそのような異常な組織の会員ではないので,気にしないことにしています。また,このことから,その組織の会員は,多少の不明点があっても何も声を上げない,体制に従順な人間であることが分かります。知性が低い。
もちろん日本物理学会に入ることの利点もあります。それは,会員であれば誰でも学会発表ができるということです。年会費と参加費,計 1〜2 万円を払うことによって,『日本物理学会員』という肩書きと,『研究発表』という業績を得ることができる。このような形でお金を払って業績を買っている大学院生は世の中に多くいることだろうと思います。
それからもう一つ利点があって,学会誌が毎月送られてくるらしいです。論文すら PDF で電子化されたものを読む現代において紙媒体で送ってくるというあたりに老害を感じますが,なかなか面白いらしいです。ただ,毎月研究室に大量に同じ雑誌が届くので,やっぱりみんな体制に従順だなぁ,という感じがします。
まあ,最近は研究費(つまり税金を財源とするお金)で学会費が払えるらしいので,1 万円ぐらいなら日本物理学会に分け与えてやってもいいのかもしれません。が,僕はケチなのでそのようなことはしていません。
他の分野であると,学会員であることが権威だったり,懇親会で政治力を発揮することが就職の上で重要だったりするのかもしれませんが,素粒子論の業界ではそのようなこともなく,さらに前述の教授よりも過激な人がその優れた業績によって就職できたりしているので,やはり素晴らしい業界であり,この業界にいることを幸福に思っています。
翻って考えると,理研の例の事件というのは,無能な人間がその政治力だけで博士号を取得し,研究職に就き,多額の研究費を使えるようになった,ということの帰結でしょう。そのようなことは素粒子論の業界ではまずありえないと思いますから,その意味では安心です。ただし,博士論文の審査がザルなのは,どこの業界でも同じであるようです。博士号を取りたい学生にはなんとか博士号をあげないと,いろいろマズいことがあるらしいです。詳しくは知りません。
ただし,もう一歩進んで考えてみると,理研の例の事件というのは,科学者(あるいは大学・研究機関)が世間に擦り寄りすぎたことの帰結のように見えます。割烹着を始めとした数々の演出は,明らかに世間へのウケを意識したものでした。もう少し正確に言うと,研究に興味の無い人間が,娯楽の一つとして消費するために行われた演出でした。たとえば上野動物園のパンダの出産,多摩川に現れたアザラシのタマちゃん,のような形で消費されることを意図したものでした。
科学者は,税金を原資として研究を行っているのであれば,国民を意識しなければなりません。その意味で,科学者は国民に擦り寄る必要があります。ただしここでいう国民というのは,主権者として科学行政への目を光らせている国民のことであり,科学政策の策定に積極的に関与しようとしている国民のことです。科学研究の成果を観察して「投資すべき科学」と「投資すべきでない科学」を峻別することのできる国民のことです。そうでない国民にいくら媚びても,それは本来研究活動に使われるべきであった労力を芸能活動に浪費していることになり,税金の無駄遣いになります。
ここで,世間に対して媚びることと,科学好きの市民に対して一般講演をすることとは区別する必要があります。前者は芸能活動であり,後者は教育活動です。大学の教員は,生涯学習・市民教養の涵養などの役割も期待されているでしょうから,そのような教育活動は,芸能活動,および研究活動とは別にして考えなるべきであり,研究活動と教育活動のどちらに重きを置くのかは個々の研究者に任せられているとされるべきでしょう。そして同時に,その教育活動は政治活動・芸能活動とは区別すべきだと考えます。
ところで,最初の割烹着の話で世間が盛り上がったことは,つまり世間の側は科学研究の成果を正しく受け入れる素地を持っていない,ということを示唆しています。むしろ,世間は科学研究の成果を「娯楽として消費」することを欲している,と考えます。そのような世間に対して研究の話をすることに教育的効果は全くないでしょう。現状において,科学者は,世間の方を向く必要はなく,象牙の塔に閉じこもっているのが適切であるように見えます。
ここ 10 年ぐらいの間に,科学の「アウトリーチ」「科学コミュニケーション」という言葉を普通に使っている人間は感性のないクズで,"reach" は動詞的な意味で用いるべきだったり,あるいは「科学コミュニケーション」では scientific communication なのか communication on science なのか communication with/trough science なのかよく分からないというか実際のところ "communication" という単語があまり相応しくないような気がしますから,本来は「科学吟遊」「流しの科学者」のような日本語を発明すべきだったと思いますし,妙なカタカナ語を持ってきた結果として概念自体が空虚なものになったと思いますが,それはさておき,そのような何かという空虚な概念が新たに発明されて,そこに人的資源が多く投入されました。が,その結果として得られた最大のものが,STAP 細胞を巡る異常な事態だったわけですから,何かが間違っていたと考えるのが素直な態度でしょうし,そのまま「アウトリーチ活動」を続けるのは反省の無い無責任な態度だと思います。僕はそこまでの熟考をした上で「アウトリーチ活動」をするだけの思い入れもありませんので,そのようなことからは手を引こうと考えています。
Twitter をやめた理由の 1 つは,そのような世間を相手にするのが嫌になったからです。
京都で研究会に参加している。今日の飲み会はなかなか有意義だったので,その最中に考えたことを,洗濯が終わるのを待っている間に長い日記を書いてしまった。あと 10 分で洗濯が終わります。
久しぶりに長い日本語の日記を書きました。これは日本語で書くべき内容だったと思う。
とまで書き終えたところで Wikipedia を見たら Science communication という項目,あるいは "outreach" という単語があったので,そのような英語があるらしいけれども,しかしやっぱり science communication というのは(名詞の連続だし)あまり概念として理解できない。もうすこし精緻な言葉を使うべきだと思うのだけれど,空虚な概念とはあまり関わり合いになりたくないので,ダサいなあと思いつつシカトすることにします。
Comments
yasha 2014/07/18(Fri) 11:16:10
みしょー
Are you on this earth still?
Misho 2014/07/18(Fri) 13:49:45
http://www.misho-web.com/tmp/still_alive.png
yasha 2014/07/18(Fri) 21:12:23
Mizuiro no Misho.
KATOKATACHI 2014/07/18(Fri) 23:15:05
水色だ。
R 2014/07/19(Sat) 02:09:41
ワインはきみを待っているんじゃないかな