みしょのねこごや

Diary - 2014年4月

PC を持たずに 18 切符で旅するのはもう 6年ぶりのことになる。とは言っても ipad だけは持っているが,まぁ博士なので仕方がない。

6年もすれば社会は大きく変わるもので,当時ガラケー+急速充電器というのが最先端だったけれども,今では iPhone から www を graphical に閲覧できるし,そうでなくても e-mobile で PC から Internet に接続することができる。ガラケーと紙の時刻表を駆使して経路と観光地を調べ,漫画喫茶で充電と mail 確認や chat などをした時代から,この6年で Internet が生活に組み込まれた。僕のように Internet を纏いながら育った人はいうまでもなく,これまで Internet を身につけていなかった人まで。

降りない駅がたくさんあって,すべての町に行くことはできない


ぼうしてこんなところにも人が住んでいるのだろう,と思う。

古いぼろぼろの家屋が山の奥深くにあるのは,年金暮らしの頑固な老人だろうからよい。しかしそれほど山深くない,県道がかろうじて通っているような地域に比較的新しい家があると,不思議な気持ちになる。

ここにどういう仕事があるのだろう,どういう『イノベーション』があるのだろう。

頑固な,つまり適応能力の低い人間なのだろうか。少なくとも資本主義的ではない。

資本主義国家によくある現実なのだけれど,新自由主義の是非に絡んでくる問題だとおもう。


死んだ男の残したものは,

自分よりも若い人を見る度に,はぁ,戦争しか残さなかったのだなぁ,新自由主義の正義の下にいきるのだなぁ,と。

実空間での連携が結果的にでもあれ切断されてしまったのなら,仮想空間のみに生きて実空間では死ぬしかないではないか。

実空間では既に死んでいるではないか……

本当は東北をダラダラと回って最終的に青森にたどり着くはずだったのだけれど,震災の影響で太平洋側の路線が滅びてたり,盛岡から秋田へ行こうとしたら秋田新幹線との並走路線で趣も何もなかったので花輪線を使ったりした結果,三日目には津軽線を乗りつぶしたり五月で廃線となる江差線を前方眺望したりすることになった。

江差線は,山中を天野川という川と並走して日本海へと突き抜ける,とても風光明媚な路線で,積もった雪とそれが融けた結果増水した川との対照が素敵だった。最後に日本海が眼前に拡がるさまも良かった。もちろん一方で,熊と鹿とキツネしかいないような山中をひたすら進むような厳しい環境であるから維持が困難なことも良く理解できた。

これで江差への交通手段が一つ消える。町の人の危機感は相当なもので,なんとか江差線を存続させようとして,廃線決定の前から「天の川」という偽駅を作って盛り上げようとしていたし,昨日も江差駅を発つ列車には観光協会?の人が見送りをしていた。廃線を知って訪れたいわゆる葬式系と乗り系の人々に,そのごく一部の人でもいいからまた来てもらえたら,という気持ちが,町の人たちの雰囲気から強く感じられた。廃線が五月の連休の後という珍しい時期なのも,そういう思いの結果なのだろう。

代わりに新幹線が来るらしい。津軽線の人里離れた土地に突然新幹線の高架が現れたときにはギョッとしたが,北海道新幹線の函館延伸はもう来年に迫っていたのだ。津軽半島にも奥津軽という駅ができ,北海道にも木古内と新函館という駅ができる。一方で江差線は切り捨てられ,津軽線もいずれはそうなるだろう。津軽線に乗っていたお婆さんに新幹線の話をしたらあまり嬉しそうな顔をしなかった。

新駅というのも微妙なものである。帰りは新青森駅から新幹線に乗ったのだが,新青森駅の周りには荒涼とした風景が広がっていた。周辺には商店もほとんど見当たらないので,新青森駅で人間が下車することは想定されていないということがわかる。六年前に来た時にはもうすこし色々あった気がするんだけど,あまりの変わりように昔の姿を思い出せなくなった。あとでInternetで確認しよう。まっすぐな線路と taxi 用の道路確保するために,周辺の構造を破壊したっぽい。空爆後の光景に似ていた。きっと新函館の辺りもそのようになるのだろう。とは言っても僕はその駅の予定地を歩いたことはないので,ただ空爆後の光景をまた見るのみである。

それで街は潤うのだろうか。新青森を犠牲にして青森は発展するのだろうか。便利になることは確かだろうが,それで潤うのは JR 東日本だろう。僕には,新幹線が,地方から都会へと賑やかさや富を吸い上げる straw のように見える。観光客は減り,出張客は宿泊日程を減らす。そして東京や札幌が儲ける。中央新幹線ができたら,名古屋の宿泊客数は減るのだろう。

資本主義とはそういうものである。そしてそれに拠らなければ全てが衰退してしまうということもわかっている。残念ながら資本主義の代替はまだ発明されていない。であればそれが most better であり,中央と辺境,資産家と貧乏人,高学歴と低学歴,の格差は拡がる一方なのだろう。

おととい行った花巻駅で,まわりに観光施設がなかったことに少し驚いた。宮澤賢治のふるさとだからなんかあるだろうと思ったけれど,それはみんな新幹線駅である新花巻駅の周りに作ったらしい。しかし新幹線に乗る人たちが新花巻駅で途中下車するのだろうか。もちろん,在来線の周りに作ってもそもそも旅客の絶対数がすくないので,どっちがいいかは微妙なところだろう。しかし,そのどちらの選択肢よりも,新幹線を作らない方が来場者数は多かっただろう。その場合はもちろん盛岡市の発展はゆっくりになるのだろうから,それはそれで困る。結局,集中する。


ところで,東北新幹線には Gran Class にも free Wi-fi がない。四年前に Köln と Paris を結ぶ Thalys という新幹線に乗った時には first class でも free Wi-fi があったので,日本は 4 年以上遅れていることがわかる。Software の面でのおもてなしはとても充実していたけれども,hardware が整備されていないことにはちょっと残念な気分になった。

先日,自分の生まれ年に造られた wine を飲んだ。


28 年も生きていれば色々な縁というものができる。僥倖としてのこの贅沢な機会は,それらの縁の 1 つの帰結としてそこにあった。


28 年生きた wine は,etiquette はもう剥がれていて,描かれた絵もくすんでいた。僕の身体も最近ほころびが見られるようになった。28 年というのはもう十分に長いということだ。それでも,そこに書かれていた "RISERVA 1986" という文字列は,普段僕が何気なく書く 1986 という記号がかつては生々しい実体として用いられていた,ということを僕に強く主張していた。僕は 1986 という数字を単なる識別子としてしか知らないけれども,そこに書かれた 1986 はその時代に生きていた人間によって現在として記された肉痕であった。その時代にも人間が生きており,Montalcino では wine が造られていた。その wine が,何故か 28 年後の 2014 年に,新宿という街で抜栓されて飲まれることになった。彼らはその wine をその時点で手放したわけなので,その瓶がこのような運命を辿るとは思っていなかったであろうけれども,しかし 1986 と記すときにそのような可能性をwine を造るものとして覚悟したのではないかと思う。実在するものを造るということは恐ろしい話である。


いつもの sommelier の方に抜栓していただいた。28 年間生きた cork はひどくくたびれていた。全体の 2/3 程度まで wine が浸透しており,時間の重みを感じた。それでもまだ湿り気と弾力を持っており,つまりきっちりと仕事を終えたのだということを主張していた。

無限の時間が経つと,wine は水になるらしい。一口目の口当たりはすっきりと謙虚で,つい拍子抜けしてしまった。のだけれど,口の奥からいつまでも去ろうとしない。表層的な全てが消えて本質的なものだけが残っていた,ということなのだろうか。時間の恐ろしさを感じた。

飲めば wine はなくなってしまう。自分と同じだけ生きた wine を殺してしまったことに若干の後ろめたさを感じながら飲み進めた。それでも wine は wine であった。一つ一つの wine の違いをそこまで明確に認識できるだけの経験と感性を持っていない僕の中に,やはりその wine もあっさりと消えていった。

28 年間生きてきた僕の体の一番下にはどうしようもないものたちが沈殿している。彼も同じだろうか。最後に一番下に残っているものが気になった。小さなカスがいくらか浮かんでいた。けれども,どうしようもない沈殿,ではなかった。雑味は残っていたけれども,きびしさやつらさは感じなかった。最後まで穏やかだった。僕もそうであったらいいなぁと思う。


Castello Banfi (Brunello di Montalcino), Poggio All'Oro, RISERVA 1986 は,その 1 本が死んで僕の体に入ってしまった。僕も静かに死んでいけたらと思っている。

Label を取っておきましょう,と言われたけれども,なんとなくそれはそこで終わってしまった気がしたので,やめておいた。その代わりに 28 年間働いて役目を終えた cork を持ち帰った。抜栓して数日が経つけれども,まだ葡萄酒の香りがする。押し入れの奥の,例の白い箱の中に入れておこうと思う。

気づいた人もいるだろうが,Twitter を protected にした。Following も follower も 2 つだけにした。1 つはもう滅んだ account で,一切発言がない。もう 1 つは最初に僕が follow した相手で,年に 2 回ぐらい tweet をする。ので,事実上僕の発言を誰もみることが出来ない。

おそらく誰も気づかないと思っていたのだけれど,protected にしたあとも log は公開されている。ので,3 日遅れであるけれども,誰でも発言を見ることが出来る。


LINE の account も消したし,Facebook も実質的に消えた状態にしてある。


なぜ SNS が必要なのか,なぜ「つながっている」必要があるのか,よくわからなくなったので,断つことにした。勿論,つながっていないよりつながっている方が良い,ということは何となく想像が付く。なぜそうなのかを試してみたくなった。

実のところ Twitter が出来る前は,誰も「つながっていない」状態であった。もちろん mixi はあったけれども,それは本質的にはそれ以前の "日記" 文化と本質的に同一のものである。その「つながっていない」は「よくない」状態だったのだろうか。それから何が改善したのだろうか。実際のところ,一切つながらないほうが良いこともあるんじゃないだろうか。