みしょのねこごや

Diary - 2014年3月

大庭さんが反日運動のさなかに北京行った日本人夫婦が中国人が「先を争って」赤ちゃん連れの自分達のために席を空けてくれるのでびっくりした,ってゆってたいや,日本の人も他人さえ見ていなければ親切にしたいんだと思うけどなどと tweet していた。のを,松戸二郎を食べた帰りの電車の中で見た。

日本の都市部の電車は非人道的だと思う。少なくとも僕が日常的に見ているものの中ではもっとも非人道的だ。今日僕が乗った車両も非常に混雑していた。座席は当然埋まっており,小池式 Internet が出来ないくらいの混み具合だったので,仕方なく文庫本を読んでいた。

日本の人たちは,「私はいつも我慢している」という意識を持っているのだろうと思う。自分が抑圧されて我慢していると,なかなか他人を許す気にはなれない。自分が "100" の我慢をしているとき,他人にも "20" ぐらいは我慢を強いたくなるのは仕方が無いと思う。もちろん自分以上の苦しみを与えたいと思っているわけではないので,"200" の我慢は強いない。

彼はでも損得から離れて親切な人は日本の方が多い印象だったとも言っていた。"100" に対して "50" ではなく "20" ぐらいしか強制しない程度には日本人は親切だと思う。そして,我慢していないときの日本人はとりわけ親切なのだと思う。


そうなると,なんもかんも JR 東日本が悪い,ということになる。とはいえ,それならそのような非人道的な電車に乗らなければいいはずなのだ。本質的な問題は JR 東日本にあるのではなく,みんなが我慢することに慣れていることなのだと思う。東京で電車に乗るような人々は,他の地方や他の国に住む人よりも(そしておそらく東京に住んでいて電車に乗らない高所得な人々よりも),我慢の standard が高いのだろう。(そうでなければ毎日電車に乗るなんて不可能だ……。)

もっとみんなわがままに生きればいいのに,とも思うのだけれども,そういうわけにも行かないのだろう。周りが抑圧されているときに自分がわがままを言わないのは,親切さの表出なのだから。そうすると,いよいよ何が問題なのかわからなくなる。

一方で,我慢することに慣れるというのは多分極めて危険なことだとも思う。「ゆでガエル」の寓話において,カエルは自分の入っている水が徐々に温められているのに気づかずに,ゆでられて死んでしまう。ここでカエルが「ちょっとぐらい熱くなっても我慢しよう」と思っていたとすると,もはや死は免れないように見える。