みしょのねこごや

Diary - 2018年01月

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01月04日

ついに 100000 歳になってしまって,老年だなあという気分になっている。あまり健康には自信がないので,持続可能性に頼らない生活をしていかねばならない。

まだ冬休み的なやつなので大学に行かなくて良いということで(そして誕生日だったので)近所の ristorante に行ってきた。昼食で EUR 70 というのはなかなかだけれども,夕食と同じ piatti だったのでまあそんなものだと思う。Fior d'Arancio の passito という概念を知れて良かった。近所なのでまた来ようと思う。まあ詳しくはあっちに書く。

近所の caffè だとか近所の ristorante/osteria だとかから思いつくのは,快適ちゃんの最近の文章だろう。と言っても実は Manuel Castells の本をまだ読んでいないし,彼の文章自体が現実の一つ上の層の言語で書かれているし,そもそも背景知識を全く持っていないので(社会学わりと避けていた)よく理解できていないのだけれど,最近 Twitter について感じていたことと繋がっているような気がしたので,書き初め代わりに少し書いてみようかと思っている。現実の一つ上の層の言語で書かれた文章を現実の層へと引き戻すこと,への挑戦である。(どうやら僕の認知は微分幾何学の「引き戻し」の概念を持ち出しているみたいですが,しかし微分幾何学のことはもう忘れました。)


社会学の主張について社会学の枠組で考えても社会学にしかならないので,現実の生活,たとえば昨日の僕の生活について考えてみる。

体調が悪かったので(というかまだ優れない)昼頃起きて,近所の caffè でいつものように cappuccio を飲んで,人気の panino 屋で昼食を食べ,大学に行って秘書さんと事務手続きについて話して,研究室でひたすら論文を書いて(共有の dropbox に "commit" して,共同研究者に e-mail を送って),19 時頃に帰路についた。帰り道で日本のアニメ関連のものを売っているお店で饂飩と蕎麦を買って,近所の supermercato で食料品を買って,近所の pizzeria で pizza をつまんで,帰宅して少し仕事をしてから寝た。

(同僚が誰も出勤していないことを除けば)わりとよくある一日なのだけど,この生活と彼の記述とはどう関わるのだろうか。


そもそもこの一日のなかに彼の言う「ローカル空間」が存在しているのかが怪しい。一見,近所の caffè だとか supermercato というのは「ローカル空間」に見えるけれども,それすら怪しい。そしてどうやら,人気の panino 屋というのも「ローカル空間」ではなさそうだ。

例えば昨日の caffè では論文の計算内容について考えていたので,Mac を開いて原稿を眺めていた。これで「ローカル空間」に僕が存在しているのかというとそうではなくて,どうやら僕の意識はその原稿の存在する「或る空間」に存在したように思える。(あとにでてくる「職業共同体空間」のこと)それ以前に重要な問題があって,僕はまだ l'Italiano がほとんどしゃべれないので,近所の caffè に来ている他の客と会話することが非常に難しい。もっとコミュ力のある人なら力強く適当に会話しているのだろうけど,そもそもあまり雑な会話が得意ではないので,言語能力が不足している状態で雑な会話をするのは僕には無理なのだ。それゆえに色々な言語を使えるようになった,という側面もある。だから,他の人たちと違って近所の caffè を近所の caffè として(未だ)使えてはおらず,それゆえそこは(未だ)「ローカル空間」ではない。

近所の supermercato というは,多分それよりももっと「非ローカル」だ。というのもその supermercato は他の supermercato で代替可能だからだ。一見,現実の「物」を買っているように見えるけれども,それすら怪しくて,例えばそれが「僕の空腹を満たすことができる情報」に変わったとしても,僕はそれで満足するのだろう。したがって相当に仮想的な存在であり,「ローカル空間」と言えるのか怪しい。人気の panino 屋というのも,単に「人気の panino を食べた」という情報を買っているだけなのかもしれない。そしてこれは言語に関係なく,おそらくその supermercato なり panineria なりに来ている人の多くに当てはまる。それを例えば「近所の市場」に置換したところで議論は変わらない。街の中に「ローカル空間」というのが存在するのか,怪しくなってくる。

次に大学に向かって秘書と話をしたのだけれど,これは「ローカル空間」のように見える。一般に職は代替可能でないし,仮想的でもない。最近では遠隔地から仕事をするというのが出来るようになったけれども,それなどは仮想空間の中に「ローカル空間」が存在しているように見えてくる。と,ここまで書いて,もしかしたら僕の抱いている二項対立(あるいは後に出てくるはずの空間の階層構造)というのは,彼のいう local/global の対比とは独立の構造なのかもしれない,という気がしてきた。だとすれば彼の記述とは独立のことを書いていることになり,それはそれでいいし,それなら彼の二項対立を理解できていないことになる(そしてあまり興味がないことになる)。

しかし残念ながら昨日は同僚が誰もおらず,従って一人で仕事をしていた。そうすると,そこは「ローカル空間」なのだろうか?確かなのは,USA と ישראל と Italia という地球上の各点を別の空間で接続した「仮想的な職場」で仕事をしていた,ということで,それが local なのか global なのかというのはよく分からないが,以下の議論に従うと「ローカル」になる


彼の文章では「グローバル空間」のことを定義的に "space of flows" と述べている。多分 spaces でないといけないはずなのだけれど(仮に the space だとしたら僕の理解とは異なる概念になる),その空間に flows のみが存在しているならばそれは「グローバル空間」だということになるんだろう。

そうすると僕は「グローバル空間」で仕事をしていることになる。というのも,僕の仕事は,論文または講演,という形でしか表現されないからだ。そしてそのどちらも,情報の flows である。正確に言えば,たとえば一緒に昼食に行く,とか,雑談/議論をする,だとかも仕事のうちだけれどそれは論文または講演のためにある付随的な仕事にすぎない。重要なのは,論文または講演を「出力」しないと,その空間に僕は存在していないということになる,という点で,「出力なしに存在可能か」というのが global / local の境界であるように感じている。


ここにいくつかの空間が立ち上がる。「仕事場」としての大学 (local),物理学業界という「仕事が行われる空間」(global),代替可能な店の総体としての「街」,いわゆる third places としての「社交場」である caffè (local であるはずだが僕はまだそこに「行って」いない),そして the first place である「自宅」 (local)。もうすこし正確に言えば,「仕事が行われる空間」というのにも二種類あって,共同研究者と Internet を通じて構築された「仮想職場」(global だけどおそらく local )と,論文が産生される「職業共同体」(global) というのがある。これらは独立に存在しているけれども,多様体の各点を同一視するみたいな思想で眺めれば,というのも僕の認知が数学的な意味での「空間」という単語に引きずられているせいで,実空間(三次元空間)のいくつかの点で接合しており,僕はそこを行ったり来たりする。

つまり僕の一日というのは,「家庭空間」を出て,自宅の玄関で一旦「街空間」へと乗り換えて,近所の caffè に行った。そこは「社交場空間」と「街空間」の結節点なのだけれど僕は「街空間」側にとどまった。あるいはそこで Mac を開いて「仮想職場空間」を訪れた。そして街空間上にある panineria に行って昼食を食べ,大学へ向かった。大学の玄関で「職場空間」(local) に行き,秘書と話をした。その後は共同研究者のいる「仮想職場空間」へと移行した。仮想職場で仕事をしている間は,さらにその上にある「職業共同体空間」の flows を受信していた。そして職場空間,街空間,と一つずつ階梯を降りて,自宅空間へと帰ってきた。

というように,階層構造を為す空間群という観点から彼の記述を理解するのが適切だと考えている。


ところで,彼の文章にフローとしての生活という句が出てくる。まあこれはお題目であって,すなわち(現代文の問題みたいに解けば)その時々に置いて自分に都合の良いローカル空間を選んで生きる,ということなのだけれども,そもそもそういう生活をしている人がどれくらいいるのか,というのが怪しい。多くの生活というのが実はすでに spaces of flows の中で営まれているのではないか,という気がする。

もちろん,日本を出て ישראל に行き Italia に行き,という僕の生活は,例えば公務員だった両親の生活と比べると,global 度が高い。具体的に言えば,両親の仕事は「職場空間」でのみ行われていたはずで,「職業共同体空間」は存在しないように思う。あるいは,言語や慣習の違う土地で暮らすことは,(caffè の事例のように)「local 空間」と再結合して「ふつうの生活」を再構築することを困難にする。更に言えば,単身で生活しているので,「家庭空間」というのがほぼ無になっている。もっと極端に "Globalization" 以前に立ち戻れば,例えば自動車の無かった時代というのは(移動ができないために商店すら代替可能でなかったゆえに)ほぼ全てが「local 空間」であっただろう。祖父母(の若い頃)の生活(たとえば染め物屋)を想像しても,やっぱり全てが local だったような気がする。

この三者,つまり僕と両親と祖父母,の間には,二種類の globalization が存在している。まず,ほぼ全てが local であった祖父母の時代と比較して,両親の生活では「移動革命」によって「街空間の global 化」が進展している。そして両親と僕とを比較すると,「情報革命」によって「仕事の global 化」が進展している。ここで更に(並行している)家庭空間の縮小を付け加えることもできるだろう

フローとしての生活とは何か,と考える上で,「フローとしてではない生活」を考えてみると,それはおそらく引っ越しをせずにずっと同じ場所で暮らす,ということか,あるいは「職場空間 (local) のみで完結する職業」を営む,ということかのどちらかであろう。前者について考えてみると,しかし,地域共同体の活動量が低下し,あるいは街空間というのが global 化してきていることを考えると,「引っ越しをせずにずっと同じ場所で暮らす」という生き方ですら,フローとしての生活となりつつあるだろう。一方で後者だとするなら,それは人類進化の上で避けられないことに見える。


以上の見方をとって,僕はようやく,グローバルなマネーフローや人の動きや企業活動が,グローバル空間をただ飛び回るだけで,それらの諸資源がローカル空間,すなわち現実の社会経済行動が行われる現実空間と結びついていかないという記述が理解できた。なにげに快適ちゃん二種類の読点つかってるねつまり,現実空間がもはや local から乖離して flows として存在している,「local な現実空間」というのが縮小してきている,ということじゃないの?という気がしている。まあよくわからない。

絶対的に local であり続ける空間として,「家庭」(とあとおそらく「職場」も)があって,あるいはその辺縁にある「地域共同体」や「近所の caffè 概念」も local 性を強く帯び続けているとおもうのだけれど,(global 化しつつある)「街」とが乖離しつつある,と言い換えることも出来ると思う。知らんけど。というかそもそも金銭って local 空間に結びつくんですかね? Global 空間にしか存在しないんじゃないのかしら?


いやそういえばそもそも「日本は遅れてる」についての話でしたね。でも,色々な国で生活していると,別に日本は遅れてないんじゃないか,という気がしない気がするんですね。たぶんこれ(「日本は遅れている」という言説がでてくること)は,現実空間というのが global 化したせいで,現実空間同士が比較可能なものになった,ってことだと思います。(なんで突然敬体になってるんだ?)

遅れている,進んでいる,というからにはそれらは比較可能でなければならない(大小関係が定義されていなければならない)けれど,例えば大正時代の日本と中世 Italia とでどっちが遅れているか,みたいな問いには誰も回答できないはずで,もうすこし問いを小さくして「男女平等の観点は」とか「宗教観は」とかにしてようやく答えられるんじゃないかと思う。しかしそれでも「差異」であって「優劣」にはならないだろう。

結局,たとえば僕が台北の自転車事情を見て「進んでいるなあ」と感じるというのは,台北での生活が東京での生活と代替可能なものになった,あるいはもう少し丁寧に言えば,台北の自転車事情が東京にそのまま導入できるほどに両都市の暮らしが似通ってきた,ということである,と考えている。たとえば僕が חיפה 出身の人間で,חיפה と台北とを比較したとしたら,べつに「遅れている」とは思わないだろう。なぜかというと, חיפה は山しかないので,坂道しか無くて,自転車を導入しても何の意味も無いからです。


結局,個人としてどう生きるんでしょうか。重要なのは local 空間に根ざして生きられるか,ということだと思います。というのはなぜかというと,「僕」というのは僕にとって代替可能でないからです。つまり自我というのは,あるいは家庭というのは絶対的に local であるから,個人として生きるというのは local 空間に根ざして生きることと同値なのです。

というのは丸パクりだけど,「local 空間に根ざして生きる」とはどういうことなのかをきちんと考える必要がある。きちんと,というのは「具体的に」ということで,(学振の応募書類を書くときに指導教員たちに「具体的に」と百万回ぐらい言われたように,具体的に書かないとお金はもらえないのです。)たとえば supermercato で買い物をするのは「local 空間に根ざして生きる」ということではないけれど,それでも supermercato に行かないということは考えにくい。Supermercato を「local 空間」に引き戻すことが可能か,というと,そんな方法は考えつかない。

ひとつ考えつくのは,先ほどの「近所の caffè」の例である。「近所の caffè」は global 空間と local 空間の接点であり,つまりどちらの空間にも存在する。つまり,「近所の caffè の global 側面ではなく local 側面に行く」ということは可能だし,それが「local 空間に根ざして生きる」ということの一つの具体化なんだと思う。


たとえば ישראל には synagogues (というか בתי כנסת)があって,そこは完全に local 空間であるから,ישראל の「人々」は synagogue に行くことで「local 空間に根ざして生きる」ことが出来る。あるいは יהודים というのは(宗教のゆえに)「家族」という概念が非常に大きくて 40 人ぐらいが「家族」の概念になっているので,もうそれだけで十分な気がする。

Italia のことはまだよくわかっていないけれども,これだけ caffè が乱立していると,caffè というのが「local 空間に根ざして生きる」ということと強く結びついているのは間違いないだろう。

では日本は?と振り返ると,よくわかりません。まあ東京とそれ以外とでは全く違うのでしょうが,なにしろもう 3 年以上「住んで」いないので,いろいろ忘れてしまいました。まあ僕にはあまり関係ないことですから置いておきましょう。

というかもう日本のことよくわからないんで,「日本ダメだ論」もよくわからないし,特に関心もないですね……。


ところでこれまでの話のなかで Internet についてはあまり触れてこなかった。

実は当初,年始の書き初めとして「なぜ Twitter をやめたのか」について書こうと思っていて,数週間前からいろいろ考えていた。その途中で快適ちゃんの文章を読んで,やっと「なぜ Twitter をやめたのか」が言語化できるようになった。というわけでここまでの文章は全部前置きです。そんでこっからが本編なんですが,もう前提を全部説明してしまったので,速を上げて書きます。


結局 Twitter が global 空間になったから使う理由がなくなったのです。


Internet というのは単なる技術であって,そしてその上にたくさんの「場」が存在している。

「場」としてまず(僕のような老人が)思いつくのは,CGIあるいは IRC の chat room で,そこは確実に local 空間である。たとえば chat をしていて,知らない人が書き込んだら「新しい人が来た」というように,「居る」「来る」「落ちる」という表現が使われるのは,local 性の表れなんだと思う。もちろん chat room では「発言=存在」であり,つまり出力なしに存在できないので,それは(定義上は) flow 空間である。のだけれど,実は chat room は「出力せずに存在できる」,というのも「いつもの member」みたいな概念があって,あるいは flow が無くても "ROM" (read only member) という概念が(かつて)あって「ROM してんじゃない?」みたいな表現があって,したがって local 空間なのだ。Caffè あるいは地域共同体が local であるのと同様に local なのである。みんなが居るいつもの chat room でなければならなくて,代貸不可能な local 空間である。

反対側の端に Facebook がある。Facebook は明白に global 空間である。Facebook にいる,来る,とは言わない。Facebook は Instagram や mixi と代替可能である。というのも,それらの全てにおいては個人は情報として集積されているだけで,あるいは flow が流れ続けるだけで,もちろん出力なしに存在できないので,そこは flow 空間である。さらに「Facebook にみんな居るよ」みたいな表現が不可能なことからも,明らかに local 空間ではない。


Twitter というのは当初は「みんなが居る」場所であった。つまり local 空間であった。もちろん「みんな」をみんな知っているわけではなくて,日本人が 1000 人以上いるうちの 100 人だとか 200 人だとかしか知らなかったのだけれど,それでも他の人も含めて「みんながいる場所」として使っていたように思う。

転機となったのはいくつかある。第一に,ヒウィッヒヒー時代,つまり広瀬香美が Twitter を初めたことによって「現実の影響力に基づいた発信」というのが行われるようになったこと。広瀬香美は僕にとっての「みんな」の中に含まれていない。理由はわからない。丁寧に言えば,現実の影響力に基づいた発信が Twitter 空間全体を貫き,駆け巡り,Twitter 空間全体を照らし出したことによって,Twitter 空間というのが複数の local 空間に分離したことが明白になった時代。この頃の Twitter は,Twitter のなかに local 空間があって,その local 空間に外部からの flows が流入してくる(受信できる)場所であった。

第二の転機は RT の導入である。「RT が Twitter をダメにする」みたいな言説は当時大流行で,なんとなく僕もそんな気はしていたのだけれど,まあそれはよくある「変化への抵抗」みたいなやつで,当時の言説を僕はよく理解していなかったし,あるいは今見返して正しかったと思うのかすら怪しい。しかし,今思うに,RT というのは「local 空間に外部からの flow を流入させること」そのものであり,したがって導入によって「外部」の存在が制度化された。制度化されることにより「local 空間」と「外部」とが送受信を始め,最終的に local 空間が global 空間へと発展した。つまり globalization が起きた。この頃の Twitter は 1 つの global 空間があって,その上に個人が存在していた。

最後の転機は東日本大震災であった。これによって,多くの人々が Twitter に流入し,あるいは global 空間というのが現実と一体化した。Twitter が他の SNS と代替可能になった。


今の Twitter は,発信なしに存在することができない。さらに,現実と同様に,「現実の影響力に基づいた発信」だとか「影響力を高める工夫のされた発信」だとかが増えてしまった。広告代理店の手法で「お化粧」された発信が取り沙汰され,流れ込んでくる,そういう SNS を利用することは,local 空間に根ざして生きることではないし,そもそも個人の代替可能性を前提としている以上,自我に対する挑戦であるように見える。


あとこれは何度も書いてるんですけど, Twitter によって「発信」していると,まとまった文章を書く気が無くなるんですよね。でも Twitter の発信というのは発信ではないんですね。

以前は,Twitter での発信は「caffè での会話」だったんですけど,もはや local 空間ではないのでそういう意義も見いだせないです。「自分を存在させる手段」にすぎないわけで。でも自分は発信しなくても存在しているはずで,つまり Twitter 上での発信というのは完全に無駄な行為だと思うんです。

本当に発信しようと思ったら,これくらいのまとまった文章を数時間かけて(構想も含めて数週間かけて)書く必要があって。しかしそれだけ費やしてもこれは一つの「日記」の中身なので,発信にはならないんですね。数ヶ月とか数年とかかけて生産された論文の前には,完全なる無であって,単なる娯楽に過ぎないわけです。

Comments

Commented by みしょ  at  2018/01/05(Fri) 04:51:35

数えてみたら 9000 字を超えていて,快適ちゃんの 3 倍ぐらい書いたっぽくてちょっと嬉しいんだけど,こんなに長く書いても誰も読まないのでは感もあって,まあそんなもんだよねという気がする。

01月10日

注文していた computer が,注文から 3 ヶ月経ってようやく届いたけれど,customize が注文通り為されておらず,仕事にはまったく使えない程度のものだった。

このせいで,或る project が 3 ヶ月間全く進んでいない。やはり研究をしたいのであれば Italia には来るべきではない。Postdoc のみなさんはお気を付けください。