みしょのねこごや

Diary - 2014年8月

It is because I have been dead.

Went to the bookstore, surprised that no books interested me.

Aleutian/Midway operation に備えて彗星(江草隊)を実装。江草艦爆隊の(急降下爆撃機)36機がもし出撃していたら,アメリカ空母に多大な損害を与えたことであろうと思います。アメリカの戦闘機は,緒戦の段階では日本のものより力が劣っていたと思います。(Wikipedia より引用;said that Ronald H. Spector told; 原典確認できず)ということなのだろうか。

江草氏は佐伯航空隊に居たらしい。久しぶりに佐伯のことを思い出した。海軍誘致によって佐伯は 6 度の空襲を受けることになった。そのおかげで,祖父母から焼夷弾の話を聞くことが出来た。

海軍が来るかも,ということになれば,そうなれば,それは町としては誘致すべきだということになるのだろう。そういう場合は,誘致しておいてその恩恵に与りながら,一方で敗色が出てきたときに自分だけは速やかに避難できるような準備をしておくことになる。

These days I rarely go out drinking with private friends; today I went to, and enjoyed great 日本酒 and 焼酎.

I stopped being friends with people with whom I was "connected" through the SNSs. I think this decision seems to be somewhat ahead of your time, and it will be a certain time to the end of this social era, but it will be an inevitable shift. I hate that people the late-majority, who were exhausted by LINE, are now talking about Twitter. I when I used twitter did not imagine usual people in cafe or train talking about Twitter; it is now another service than the good-old Twitter.

Anyway you and I are no longer friends.

ある芸術家への手紙

大庭亀夫という人間がいて,その人間は他人への手紙を weblog に書くということをしている。面白そうなのでまねしてみようと思いました。


僕は昔から grotesque なものが好きで,というと君は「グロテスク」という概念と,美術史上の grotesque という概念とを比較するかもしれませんが,ともかくいわゆるグロテスクなものが好きで,例えば少女革命ウテナに出てくる合唱曲とか,或いはぐにゃぐにゃ世界の冒険という絵本(実はこれは位相幾何学の本なのですが)に熱中したことがあります。Piano で弾く曲も,だいたい人間が死ぬようなばかりです。ここまで書いたところで,baroque / gothic の概念との違いがよくわからなくなりましたが,気にしないで書き進めます。

そういうわけなので,あの絵も,やはり好みの絵柄だなあと思って何となく見ていたのですが,よく見ていたら,見てはいけないものが見えてしまったような気がして,and was astonished, being attracted. 和訳しても良いけどなんとなくやめておきます。

僕は,最近でこそ(つまり東京に来てからは)上流階級の方々と付き合うようになったのですが,元々は平凡な家庭に生まれた中流階級の人間です。その上,数学的な方向に興味を集中させてしまったので,それほど芸術的教養が高くない。音楽ならばまだなんとかなるとりわけ絵画はよくわからないことが多い。

例えば,ある絵を気に入ったときにはどうすればいいのでしょうか。絵を買うというのも悪くないのですが,とてもずぼらな人間である上に,nomadic な生き方をすることになるので,それ以外の方法を必要としています。

その絵の作者に絵をもっと描いて欲しい,と思ったりもしますが,これも困難がある。書けと言われて書けるものではないですし,絵の傾向も変遷していくので,僕が気に入った種類の絵は二度と作れないことの方が高い。たとえば科学論文であれば,書く論文の傾向は意識して選べるのですが,芸術だとそうはいかない。変遷までを楽しむものなのでしょうか。人物を買うというのは,academia でも同様ですが,難しいことです。

いずれにしても,僕は君にもっと描いて欲しいと思います。量産できるものでもないので,「描き続けて欲しい」というのが正解なのでしょうか。

そうすると,人は何故絵を描くのを辞めるのか,という話になる。たとえば研究者であれば,金銭的事情(就職できなかった)と精神的事情(飽きた/限界を感じた)があるわけですが,芸術家も同様なのでしょうね。精神的事情だと難しいのでしょう。

手紙のつもりで書き始めたけどだんだん自分の中で議論が進んで自己解決しはじめてきたし,完全に手紙っぽくなくなってるけど,このまま書き続けます。

いずれにしても,絵を楽しみにしています。

どうして僕が君に興味を持っているのか,には 2 つ理由があります。

あなたは僕のことを「同じ側の人間」だったか「同類」だったか,ともかくそのような表現で呼称しました。以前に大庭亀夫という人間がこの種族についての文章を書いていて,その中にくっっさあああーい言い方をすると,世代が違い言語が違い住んでいる国が違い貧富が違い社会的地位や肌の色が違っても,この種族のひとびとはあまりに数が少ないので,お互いを血縁に近い存在とみなしている。という記述があります。僕自身は,この類の人々のことを「血縁に近い存在」「同じ側の人間」であるとは認識していなかったのですが,君にそのように言われて,そのような認識を持っている人間がいたのだ,と,驚いたのです。彼は同じ記事のなかに特別な名前は付いていないが,お互いにそれと知っている。と書いていますが,君が僕のことを同じ側の人間であると言い当てたこともまた,驚きでした。

もう一つは,あなたが海外に行きたいと言っていたことです。最近の若者は,僕の予想以上に,海外を向いている。なんとなく,日本から逃げ出さねばならない,という意識があるように見えます。これもまた大庭亀夫の文章に基づくのですが,まだ日本の放射線量と外交事情がよかったころに,彼はラナウェイズという記事を書いています。あなたがこの仲間に加わるのであれば,友達になりたい,と思ったのです。ちなみに,東日本が放射性物質で汚染され,総理大臣が国家を統制するための枷を形骸化させてしまったあとには最終列車が出る頃という記事を書いています。困った話です。

よい結句が思い浮かびませんが,まあ後半は手紙っぽくなったので,よしとしましょう。

Internet 上の言葉の貧しさ

先日の手紙で,大庭亀夫氏の文章ばかりを引いてしまったことに極めて強い違和感を覚えていた。なぜ他の人の文章を引用しなかったのだろうか。

よく考えたら,最近,彼の書いた文章以外に引用すべきものを読んでいない。(勿論 web 上に限った話であり,書籍などでは見ている。)Internet 上にはたくさんの文章が書かれているのに,そのどれもが,僕にとっては記憶するに値しないものだと感じられる。

このような “Internet 上の言葉の貧しさ” の原因を考えてみたい。

最大の理由として,人々が 140 字以上を書かなくなったことがあるだろう。Twitter の 140 字という枠は,暇つぶしのために書く言葉の量としては適切であろうけれども,言論を展開するには足りない。140 字の言葉をいくら積み重ねても,それは 140 字に満たない小段落を積みあげたものに過ぎない。言論どころか,随想としても不足している。Twitter に書かれたものは,時間を消費するための消費物にすぎない。Twitter 上でものを言うのは単なる暇つぶしに過ぎず,その発言を以て何か言った気になるというのはただの自慰行為である。もちろんそういう発言に対して Twitter 上で議論を持ちかけても無駄だろう。かのようなものは,自慰行為と言論を混同しているのであろうから,紙媒体での発言も自慰行為だと思って見てやるのがいいと思う。Twitter 上で「言論のつもり」をやっている人間は何をやってもダメだ。

もう少し考えを深めるために,はてなブックマークの現在の一覧を見てみよう。この中に,何か「ものを言っている」記事はあるのだろうか。

一番上に雑誌の記事が載っている。すぐ下にYahoo! JAPAN ニュースの記事と,はてな匿名ダイアリーの記事。アッ,めいろまがいる。何かものを言ったつもりになっているぞ。まあそういうわけなので,メイロマの書いていることはまともに読む必要がないとわかる。その下にまた Yahoo! 2 つ。もう少し下に下がると,けんすうさんの記事宇野さんとけんすうさんの対談

なんとなく,最近の“日本語 web 言論” は,雑誌や news の web site 上で展開されているように感じていた。実際にこうやって見てみると,そういう記事がたくさん上がっている。“日本語 web 言論” の中心は,雑誌や news の web site にあるように見える。

そういう site 上での言論は,どうしても一つの記事の中に限定されてしまう。一つの記事の中で一つの主張を展開することは可能であるが,しかし,本来認識すべきは,その主張の背後にある「理念」「哲学」である。それらは,書籍程度の長さがあれば十分であるが,web 上においては,その著者の書いたものをいくつも見て行くことによって読み取ることになる。しかし,たとえば PRESIDENTYahoo! JAPAN ニュースの記事でそれを行うことは難しい。実際にそういうことをやっている人も少ないだろう。

やはり,言葉に価値を持たせるためには,読者に 1 つの記事で完結させるのではなくて,多数の記事の集積を読ませるような形がいいと思う。それが多分,大庭亀夫氏の文章の強みなのだろうと思う。山本一郎さんも,Yahoo ではなく自分の blog に集積した方がいいと思うのだけれど,まあ金のためには仕方が無いのだろう。

なんか尻切れトンボ感があるけど,飽きたのでこれくらいで。

物のほうが人間よりも高い国;物価が上昇したのに賃金が上がらなかったらどうなるのだろう;と思ったけれど,それは現代であり,また推定可能な未来の姿だった。


Granada に居る某 YY さんによって Wikipedia に追加されたみしょ(参考:4月22日の日記)ですが,7月26日に僕につっかかってきた the fool with four-minute memory によって削除されたようです(IP が一致している)。削除したのが 2:53 (JST) なので,comment 書き込み→comment 削除→Wikipedia を編集,という手順だったようですね。知能のかけ離れた人間のやることはよくわかりません。

コンテンツとして非常におもしろいのでみなさま今後とも宜しくお願いします。(お願いしましたよ。)

Good Luck

I was in 富士吉田, the foot of 富士山, to participate in a conference (that is, to rest in a hotel and there enjoy dishes and alcohol with other physicists; ah, do not forget that I gave a talk on our new paper!).

There, thanks to the organizers, we had an excursion day (yes, "an"!) on the day "吉田の火祭り・すすき祭り", the primary festival of 浅間神社 (Sengen shrine, the shrine of 富士山). Admiring the spirits, I joined the crowd and participated in a ceremony. Now my backpack has a talisman.

It is because of the spirits that a good came to me, i.e., "いいことがあった".


とりわけこの日記については,日本語で書くか English で書くか,をとても注意している。日本語というのは,もしかしたら,儀式において神官が唱える祝詞そのものであって,普通の人には理解できない,間延びした,普通の人に理解させることを目的としていない,形式としての,死んだ言葉であるかのような気がしている。(だから,この文も死んだ文であり,ここに書いても仕方が無い。)

だけれども,この次の段落からは友達への手紙なので,日本語で書くことになります。I don't know whether you read or not, but it does not matter, and I wonder you might understand what I want to say even if I wrote in English, but anyway, after a short consideration, I decided to write in 日本語. そういうわけで,また,手紙のような日記です。


ある友達への手紙(としての日記)

生きていると,時々,面白い人に会うことがあります。「友達以上恋人未満」に対して「恋人以上,あるいは別の方向性としてのもの」と言ったのは,今の(わりとしっかりしてきた)頭で考えても多分その通りで,「友達」というのは,そういう意味で使うべきものなのかもしれません。

と言って,いま MacOSX に付属の英和辞書を引いてみたら,"日本では少し親しくなると「友達」というが friend はよく理解し合い好ましく思う相手にのみ用いる。" と書いていました。僕には大庭亀夫という友達がいて,彼は「友達」という単語を極めて限定した意味で(日本語での「同志」に近い意味で)使っていたのですが,それはたぶん彼の母語が English だからなのでしょう。だから,"friend" と恋人とは別の方向性なのだと思います。


ここまで書いてみて,どうやらこれは手紙にはなりそうにないので,ただの日記ということにします。でも,一応日本語で書くことにします。


この国が「ここから脱出しないといけない場所」になってから,つまりこの国から速やかに出て行かなければいけないという状況になってから(僕がその状況に気づいてから),この国にいる人たちを見ているとどうしようもなく嫌な感じになるので,街行く人間というのはだいたいが敵になってしまった。

2012 年 3 月の日記を見ると,それでも,その中に潜んでいる仲間に向けた文章を書いているので,まだ当時は少し希望を持っていたように見える。

絶望が濃くなったのは,Twitter も Facebook もその舞台装置の一つであるということに気づいたからで,とりわけ Twitter はもう,2009 年ごろまでの,人々がまだ Twitter の中で世界を作り上げようとしていた頃とは違って,現実の世界を希薄化するための道具になってしまっていたので,いよいよ人間と関わらないようになってしまった。2009 年ごろの日記は,どうやらみんなに向けて書かれているので,Twitter の変化と符合します。

そんな中で,あなたのような「追いかけておきたい人間」を見つけると,非常に嬉しくなる。あまりに一方的な感情なので,「友達」の持つ双方向性とはそぐわないので,数段落前の議論を無視して,やはり友達というよりは「追いかけておきたい人間」と適切に呼称することにします。

やはり大変化というのは免れないような気がするので,僕は落ち着くまで席を外そうと思いますが,その中であなたたち「追いかけておきたい人間」がどのようにするのか,興味があります。

思想と思考と実際の間には大きな齟齬があるので,思想通りには上手くいかないと思いますし,僕が言うまでもなく思想と実際の齟齬を既に体験していると思いますが,やっぱり,思想を実際に合わせるのでは無くて,思想を実際に変えていく方がいいのではないかと考えています。

やっぱり誰にも分からないような文章になってしまった。やっぱり,手紙というよりは,僕自身の備忘録としての日記になってしまった。抽象論になってしまっているのは僕が具体物まで思考を展開できていないからです。


ここから先は,たぶん完全な日記です。手紙ではない。思ったことを考えずに日本語で書きます。


つまらない人間になってしまったなあと思う。「東大生」になる前の僕は,もっと面白い人間だったと思う。

それは僕が,なにものでもなかった存在から,「東大生」になってしまったからで,そのまま「物理学者」になってしまったので,全然おもしろくない。

その辺に転がっている人たちに比べると,圧倒的に面白いことを考えている,という自信はあるのだけれど,考えているだけで実行に移さないので,全然おもしろくないのです。東大生になってからは,東大生としての実行が多くなってしまったし,今では物理学者としての実行しかなくなってしまった。

それは,でも,平和なことなのだと思います。

Internet についての mail magazine を書いていたころがあったし,そして(もっと面白いことに)政治についての mail magazine を発行していたこともあった。毎週ちゃんと長文を書いていました。すごい。

そういう実行をしていない。

やったとしても,たとえば "science communication" のような「物理学者としての実行」だけで,物理学者としての実行であればその辺の物理学者の誰にでもできるので,全然おもしろいことではない。(しかも "science communication" は完全なる害悪だということに気づいてしまったので,結局,今は何もやっていないことになってしまった。)

でも,そういうものなのでしょう。

知人の研究者が,研究者になってからちっとも面白くなくなってしまったのですが,それは僕の姿でもあった。

この日記を「面白い」に勘定するのは,やっぱり自分に甘いのでしょうか。

やっぱり物理学者というのは,僕にとっては「昼の仕事」なのだろうと思います。周りには「昼夜を問わず」研究に集中している人がいて,その中に混ざっていると自分が「昼の仕事」として研究をやっていることに罪悪感を覚えたりもするのだけれど,それでも「『昼の仕事』にできない仕事」というのを許してしまうと人間というのは研究する機械になってしまうので,僕は,この世界はそのようにはなっていないはずだ,ということを証明するために,昼の仕事として研究者をやっているのだと思います。とうとう Hannah Arendt に手を出してしまいましたが,彼女の言葉を借りるならば「活動 (action) を許さない仕事 (work) は人間性を失わせる」ということになるのでしょうか。(すこし違う気がします。)


では「夜の仕事」は何なのか,ということになりますが,多分それは,この日記を書くことなのでしょう。今は平和なので,多分,この日記を書くだけで済んでいるのだと思います。(computer programming かな,とも思いましたが,それは単に道具に過ぎないっぽいです。)


数時間後の追記

「夜の仕事」という言い方は不適切だったように思う一方で,「昼の仕事」という表現はよいなあと思った。

What I mean is that my work as a physicist does not express my personality, though includes my thought/ideology, and that I used to do some works which show my personality (and these articles might be those).

A feature of the grammar of 日本語 is the loss of subject. Instead, it has topic, or context, as an alternative of subject. In a conversation in 日本語, or even in a writing, we first put something to the topic, and then discuss it.

I think that the discussion also has some difference from that in S+V languages. In such languages the verb directly describes (on) the subject; it seems to me that verbs of 日本語 do not, instead they append descriptions. It is like carving a wood to make a statue, while S+V languages have no woods and the verb creates a statue.