みしょのねこごや

Diary - 2016年06月

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06月06日

思考の断片

いくつか書こうとしていた思考の断片があったのだけれど,忘れてしまった。一つは先日とりあげたものの他に頭のおかしい大学教員公募が見つかったのでそのあたりのことを,とか思っていたのだけれど,忘れてしまったので,それはどうでもいいことなのだろう。日本という狭い世界でやっていっている人のことはどうでもいいので忘れていきたい。

そして今あたらしく降ってきたので書く。


以前の訪日の折に,僕がこのように,さまざまな街を訪れる生活を営み,数年ごとに次の国へと行く人生を送っているので,それとは対照的な「ずっとそこにいる」という生活を営んでいる人たちは,僕にとって特別な意味を持ちます。と書いたのだけれど,世の中はそれほど単純ではなくて,ずっとそこにいる人たちもいなくなったりする。あそこで書いた人たちのうち 2 人が「ずっとそこにい」なくなった,という話を聞いて,もしかしたら僕よりも頻繁に移動するのではないか,という気持ちになった。

それでも僕は,どちらかというと様々な街を訪れるような生活を指向しているので,研究者という仕事の特性というよりは個人的な指向という意味で,彼らよりも,というか他の多くの人よりも,そういう気持ちが強いのだと思う。

そういうわけで「そこにいるということになっている人」は,移動してもやはり僕には「そこにいるということになっている人」なわけで,3 ヶ月後にまた訪日するときには,そこにいるということになっている人がそこにいるということにするために,彼ら・彼女らをなんとかして見つけて,交信して,つかまえて,そこにいるということにしていくのだと思う。

それは極めて個人的な,自己満足に近くて,そしてそれにつきあってもらうのだとおもう。

06月14日

日本語が語彙の不完全な言語であるということの一つの象徴は,"husband" - "wife" に対応する日本語が「旦那さん」「奥さん」しかない,ということだろう。言語が 70 年前のまま何ら発展していないということに,貧困さを感じる。

もちろん「妻」「夫」という性中立的(つまり現代的)な単語は存在するので,その単語を発展させればよいのだが,他人の妻のことを指すのに「妻さん」「夫さん」のようには言えないので,やはり語彙が欠落している。(もしかして僕の知らない単語があるのか,と思って類語辞典を引いてみたが,見つからなかった。)

このように日本語が「時代に取り残されている」原因は,おそらく日本語母語話者が自分の話していることの意味を考えずに話していることにあるのだろう。内容を正しく把握しながら,自分の言葉として責任を持ってしゃべっていれば,他人に対して「あなたの奥さんは」とか「あなたのご主人は」とか発話することの異常さに気づくと思うのだが,そうではなくて言葉を概念の連鎖として発語しているため,そのようなことが起きずに停滞しているのだと考えている。言い換えれば,言葉が具体的ではなく抽象的に用いられている,具体ではなく概念として認識されている,ということで,それは日本語による記述が具体物の一つ上の階層を指し示して行われているということを意味するのかもしれない。

06月15日

舛添都知事の辞職を衆愚制だとか言ってるのは程度が低くて,なぜなら東京都政(都知事選)は青島都知事の時代から衆愚制の象徴なわけで,みなさんそれに対して何もしてこなかったのですから,いまさら何を言っても負け犬の遠吠えなわけです。

衆愚制であることを認識しておきながら,衆愚制が露呈するまで何もせず,露呈してから批判する,というのは程度の低い行為ということですね。

都民の多数が「辞任すべき」と考えるようになる前に行動を起こさなければ意味がないのであり,そのようになってから「これは衆愚制だ」と批判するのは市民をバカにしているゆえの行いでしょう。

古典的には行き着く果ては独裁制なわけですが,それはそれで,外から見ている限りは面白いと思います。なので僕としてはその方向で進んでほしい。ついでにせっかく無敵の人になったわけだから不信任案議決で議会を解散させた先例を作ってほしかったところですが,そうはいかないようで,残念です。

06月24日

UK Referendum

国とは何か,と考えたとき,実体としてはそれは「壁に囲まれた領域」ということになるだろう。その壁は,ישראל にある分離壁のように,あるいは Trump が主張するように,あるいはかつての万里の長城のように,可視の状態で存在する場合もあれば,日本海や Dover 海峡のような「壁」もある。いずれにしても,実体としての国は実体としての壁に囲まれていて,域内外の往来の自由を制限することで内部の安全を保障している。

歴史的に考えても,人間は壁によって域内と域外を分離し,域内を支配する人間の都合が良いように,その域内を支配してきた。民主主義の発明によって「域内を支配する人間」が「域内の人間」とほぼ同義になった。したがって,現代の国は,国境によって分離された内側を,その内側にいる人間の都合の良いように統治する装置である。


壁がなくなったらどうなるのか,あるいは壁は現代ではどういう役割を果たしているのか,を考えることができる。物理学の知見を応用すると,「壁が無くなったら両側は均質になる」ことがわかる。豊かな側は貧しくなり,治安の良い側の治安は悪くなる。 ישראל のつくったあの壁が無かったら,あるいは USA と Mexico の間に国境管理所が無かったら, ישראל や USA には低賃金の労働者(正確には,価値を創造する能力の低い人間)が流入して一人当たりの生産性は低下し, terror attacks の脅威も増す。

移動手段と情報技術の発達はその「均質化」を加速させる役割を果たしている。とりわけ internet の発明は重大で,少なくとも情報の上では国境はなくなった。移動手段は発明されたし,internet によって情報の境界はなくなったので,人々はどこに行けばよいのかを知っており,そのための手段も持っている。なので,均質化は急激に進む。


その壁を取り除こうとしたのは,第一には資本主義であった。資本主義において資本は資本を生み出せる。資本家は市場が大きければ大きいほどよりたくさん儲けられる。したがって,国の間の壁を取り除くことで,大きな市場をつくり,それによってより儲けようとした。

もう 1 つ,基本的人権,つまり「人間には権利がある」という思想も,その壁を取り除く力となった。Les hommes naissent et demeurent libres et égaux en droits,壁の向こうから来る人間 les hommes も自由 libres で「平等に」権利がある égaux en droits ので,壁を取り除くことは正しい,という思想だった。Internet 上の自由も,「自由」という概念を人々に実感させるのに役立ち,自由の概念が広まった。


そういう動きに対抗したのが,今回の UK referendum だったのだと思う。だから,知的階級や資本家は remain を選択する傾向にあり,そうでない人たちは leave を選択する傾向にあるのだと思う。(正確な data を見ているわけではないので予想だけれど。)さらに言えば,資本家や知的階級は国境が無くなっても別の壁(つまりお金や知識)に守られているとも言える。そうでない人たちは国境こそが唯一の特権であるので,国境を取り除くことに反対するのは必然なのだろう。今回の結果は,そういう人たちが民主主義の力によって資本家や知的階級に反乱を起こしたのだ,と考えている。


そうであるからといって,そのような「国境という特権」がこの先長く続くとは思えない。壁の外の人間は増殖を続けているのだから,やがて「物理的な力」によってその壁を破壊しようとしてくるのだろう。それは壁の中の人間にしてみれば「暴力」だけれども,外側の人間にとっては「生まれながらの権利」を行使しているだけということになる。

結果として,「人間には権利がある」という主義は修正を迫られることになるだろう。つまり,「権利」の範囲を狭めるか,それとも「人間」の範囲を狭めるのか,ということになる。権利を狭めることで,つまり社会保障を削減したり税率を高めたり自由権を制限したりすることもできて,その場合は壁のない均質化した世界を指向することになる。あるいは,壁の外にいるものは「人間」ではない,とした上で,壁の外の人間を「物理的な力」によって排除することになるのだろう。今のところはその折衷案みたいな形でなんとかなっているけれども,外側の人間が増えてくるに従って,そうはいかなくなる。

いずれにせよ,いくつもの対立がある,という事実が改めて具体化したわけである。今後は,資本家とそれ以外の対立,国籍という特権を持つ者と持たない者の対立,国境以外の壁を持つ人間と持たない人間の対立,人間を限定するか権利を限定するかという思想上の対立,これらを今後どのように解消されていくのか,ということを考えていくことになる。


ところでこのせいで資産(円建て)が 30 万円ぐらい減って,給料も 4 万円ぐらい下がりました。これは「資産を持たないものによる反乱」に他ならない……。

06月25日

文章を書くには

文章を書くには,「書きたい」という欲求が必要である。

というと当たり前のことに見えるし,実際にかつてはそれが当たり前だったのだけれど,現在ではそれは非自明なことになった,つまり書きたいという欲求がなくても「文章を書く」という行為自体はできるようになった。

僕の祖母は長年にわたって日記をつけていて,40 冊ぐらいの日記帳が実家の倉庫に残っている。祖母が死んでもう 10 年が過ぎたような気もするし過ぎていないような気もするけれど(たぶん過ぎた),とりあえず「これは貴重なものだから捨てないで」とは両親に言ってある。それらの日記は言うまでもなく「書きたいから書いた」ものだろう。書かれたものは読まれなければならない。しかし,その「読む」の主体は,彼女にとっては彼女自身でしかなかったのだと思う。(もしかしたら子や孫が読むことも考えていたのかもしれないけれど。)

そのように,かつては「書く」と「(他人に)読まれる」ということは全く別のことであった。読まれるためにはどこか公開の場所に投稿しなければならなかったし,実際に書かれたものが人間に(特定少数でない人間に)読まれることもほとんどなかった。

しかし現代では,internet の発展によって,「書く」と「(不特定または多数の)人間に読まれる」という 2 つの物事の間の障壁は格段に低くなった。書かれたものを読まれる状態にすることが one click でできるようになった。

その結果,「書きたい」人間が文章を書くだけではなく,「読まれたい」人間が「文章を書く」こともできるようになった。これがいわゆる「日記サイト」あるいは「weblog」の時代に起きたことだった。

そして同時に,「書きたい」という欲求と「読まれたい」という欲求の区別が次第に曖昧になっていった。


それから時代は移り変わった。日本では mixi がその嚆矢であったと認識しているが,「読まれるための日記」という概念が生まれた。人々は,日記サイトから離れて weblog (ライブドアブログ,goo ブログ,exblog などがあった)に向かって,そこで comments を交換するように,つまり読まれることを強く意識するように,なっていったのだけれど,さらに流れは mixi という「読まれたことが可視化される場所」へと向かった。読まれることを目的として「書く」が行われるようになっていった。

その後,(日本では) Twitter が流行した。海外では Facebook が先だったと思うのだけれど,日本では Twitter が爆発的に流行し,それに Facebook が続いた。そこは,読まれることが確実に保証される世界であると同時に,(字数制限が厳しいので)「つぶやき」さえすればよい,という場所だった。そしてそれは状況を悪化させた。


これらは (A)日記サイト・weblog・mixi, (B) Facebook, (C) Twitter,という 3 つの groups へと大きく区分けることができる。(A) の 3 つの間には「読まれやすさ」において程度の差異が存在するけれども,それは quantitative なので無視してまとめることにする。(A) においては書いた文章が蓄積される。つまり○○の書いた文章の集合体として,stock として取り扱うことができ,読むことができる。1 つ 1 つの記事の間に文脈の連関があり,思想の継続がある。

(B) においてはそのようではない。もしかしたらこれは自明ではないかもしれないのであるが,しかし実際はその通りであるはずだ。○○の書いた文章の集合体,という視点では取り扱われないようになっている。逆に "timeline" という概念によって流れていくものとして,flow として取り扱われるような想定になっている。さらに,これもまた気づかれにくいことなのだけれど,(B) Facebook においては文章の見た目を自由に指定することができない。文字の font や大きさ,1 行の長さ,行間の空白,段落の開け方,背景や文字の色,などは,文章の読まれ方を左右する重要な要素であって,従ってどのような文章を書くかということと密接に関係しているのだけれど,それに対する支配権を失ってしまった。だから Facebook に書いた文章は均質の「読まれ方」しか出来なくなっている。

それがどのような読まれ方なのかというは後述することにして,とはいってももしかしたらただ読んでいるだけでは読み取れないかもしれないけれど, まず (C) もこのような設計になっている点を指摘する。つまり,Twitter でも,その見た目(とりわけ文字の大きさと 1 行の長さ)を自由に指定することができない。そしてさらに文字数制限によって,書かれる内容すらも Twitter に支配されている。


Twitter に書かれる内容というのは,思考の断片であったり,それほど強い意図をもたない「つぶやき」であったり,あるいは単なる文字の羅列だったりする。というか,Twitter には "tweet" が書かれる。すなわち,Twitter は "tweet" という概念を新たに生み出して,したがって Twitter には "tweet" しか書かれていない,ということになった (by definition)。それらは本質的に新しい概念であったために,当初は(つまり最初の 5 年ぐらいは)僕もそれに夢中になって,様々な "tweet" を生み出した。"Tweet" の概念は極めて迅速に拡張され,今思い出せるだけでも,時報,切り取り線,縦読み,連投 AA,footer,(非公式)RT,空リプなどがあり,necotter,favotter,あるいは rolling icon などの icon 芸など,様々な創造がなされた。それらは「文章を書く」というのとは全く別種の,文字による遊び「tweet 文芸」だったのだと思う。

何が言いたいのかというと,Twitter というのは文章を書くための場所ではないということだ。


ところが,Twitter でも「文章を書く」という行為をすることはできる。そしてそれによって「読まれたい」という欲求を満たすこともできる。しかしそこに書かれたものは文章ではなく,"tweet" なのである。したがって彼らは文章を書いてはいない。ただ「読まれたい」という欲求を満たしているに過ぎない。

いちおう注意しておくと,「tweet をする」という行為,つまり直前に述べた「tweet 文芸」も,「読まれたい」という欲求と表裏一体のものとしてある。しかしそれは「文章を読まれたいので文章を書く」というのではなく「tweet 文芸を見てほしいので文芸をする」という行為であることに注意する。つまり,この文章の主題である「文章を書くには」とほ別の世界の話である。


ここまで前提を丁寧に説明したので,もうあとはわかってもらえると思うので,「速を高める」ことにします。がんばってついてきてください。ついてこなくてもいいです。


そういうわけだから Facebook や Twitter に書かれているものは文章ではない。だから,そこに文章を書いたつもりになっている人は文章を書きたくて書いているのではなくて,ただ読まれるために書いている。承認欲求,というとちょっと変な意味合いがついてしまうけれども,書きたくて書いているのではない。

文章を書いていないし,なによりそれが stock として取り扱われないので,そのようなものをいくら書いたとしても,それによって思考は展開しない。自分の思考は発展しないし(発展したつもりになっているかもしれないが,しない。),他人の思考を刺激するきっかけとなることもない(そういうことが起きることを期待しているのかもしれないが,起きない。) timeline の流れの中で flow として消費されるだけの養分を,与えられた枠組みの中で生み出しているにすぎない。

Facebook や Twitter に書かれたものは,おそろしいことに,「意見」ではない。「論」ではなく「感想」にすぎない。Report ではなく感想文にすぎない。SNS というのは,そういう感情,感想みたいなのを適度に吐き出せてしまうところが勿体無いんだろうなということを @hari_monga が言ってたのだけれど,言ってみればそれら SNS というのは人間の「読まれたい」という欲求を養分として吸い上げているにすぎない。もちろんそれでいろいろなものが生まれて,たとえば tweet 文芸であったり,人と人とのつながりであったりは確かに生まれて,僕もその楽しさや意義は十分に知っているのだけれど,しかし「文章」は生み出さない。「書き手の思考や感情がほぼ表現し尽くされているひとまとまりの統一ある言語表現」は生まれない。これは大辞林による「文章」の説明であるが,僕の言いたい「文章」とはまさにこのように表現される概念である。英語では "composition" "writing" に近い。


だから,Twitter で文章を書いた気になって,意見を述べた気になっている人間もいて,そういう人を見ると,残念だなあ,と思う。あなたは何かを述べたつもりになっているけれども,何も述べていないし,誰もあなたの述べたいことを理解してはくれないのだ。しかし,そのような勘違いをしてしまうのは理解できるので,「残念だなあ」というように思う。

むしろ,他人の tweet を RT する人のほうが見ていて嫌になる。それが「tweet文芸」ならば良いのだけれど,そうではない場合がある。Tweet を文章だと勘違いして,文章を読んだ気になって,その文章を理解したつもりになって,その文章を他人に紹介したくなって RT するような人間の気持ちがわからないし,そういう人間とはあまり知的な関わりを持ちたくない。それは文章ではなく,したがってあなたは理解したつもりになっているけれどもなにも理解していないし,あなたはそれにすら気づいていない。その程度の知能なのか,と気持ち悪くなるけれども,まあ無関係な人間なので放っておくことにする。しかしそういう人間を見たくは無いので,Twitter はあまり使わないようにしているし,自分の tweet が RT で拡散し始めたら tweet を消すようにしている。

Twitter で「議論」をしている人たちも滑稽だ。「Twitter で議論はできない」というのは良く知られた真理で,それにはここに述べたような根拠があるのだけれども,とにかく多くの人は実感として「Twitter で議論はできない」ということを知っている。それでもそれを知らない人たちが,あるいは「自分ならできる」と思っている(考えの浅い)人たちが議論をしているのをみると,やれやれ,という感じになる。議論はやっぱり Skype でやるのがよいとおもう。

みたいなことを,担々麺?を作りながら考えていた。知的営為のために重要なのは,文章を stock として蓄積する,ということだと思う。そしてこの文章もその蓄積の一つである。

僕が外部の blog services を使わずにこの website での日記にこだわっていること別の目的では外部の services を使っている。も,そして「日記」という表現にこだわっていることも,「書く理由」まで含めて,以上のような理由に基づいてる。

06月26日

UK referendum から

先日,UK referendum についての観察について書いた。それは現状の観察であって,今後どうなるのかについては記述しなかった。というかその時点ではそこまで頭がすすんでいなかった。

その後,寝る前に少し考えて,それを Twitter に書いた。そういうわけなので,昨日の日記の論旨を踏まえて,ここにまとめておくことにする。なにより時間が無いので速を高めて書きます。


Twitter での思考の流れを読んでもらえればもうわかると思うのだけれど というか未来予想図なのでそれでわからなければわからないだろうからみなさん各自で考えてくださいという感じなのだけれど, このままでは les hommes の定義を縮小するか droits を制限するかしかない。このままで無くするには,innovation によって「あれ」をなんとかするしかない。

「あれ」というのは食べ物と energy の奪いあい,あるいは現代ではそれをごまかすために「富の再分配」などと呼ばれる行いのことで,少なくとも食べ物と energy (正確には,利用可能な energy)には限りがある。完全に富を再分配したとしても飢餓によって死ぬ人間が出てくる。従ってそれをなんとかするような innovation を生み出すしか無くて,そうでなければ les hommes の概念が縮小される,つまり殺し合いになる。

どうやればいいのかなんて僕は知らないし知ってたら今頃大金持ちなんだけど,それでもわかることがあって,それは innovation を行うには人間の知能を発展させねばならないということです。人間の知能を発展するにはいくつかのやり方があるのだけれど,最も効果の大きいのが「脳をくっつける」というものである。現代の科学業界を見てわかるとおり,人類知というのは集合知の形で発展しているので,それを加速させればよい,ということだ。

そもそも脳細胞をたくさんつなげたら脳になるのだから,脳をたくさんつなげるとこれまた 1 つの脳になることは自明である。自明すぎて誰も触れないのだけれど,しかし科学や技術はそのような「巨大な脳」によって進んできた。1 人の人間では考えきれないことを collaboration 「共に働く」によって考え,生み出してきた。そういうわけだから,殺し合いを回避するには脳をつなげなければならない。

そのための手段が internet であり,あるいは「移動の自由」である。


"Remain" の側が果たしてそこまで考えていたのかというのはわからないけれども,もしかしたら EU という supranationalism の背後にはそのような思想があったのかもしれない。もちろん先日も書いたように壁をなくすことには諸問題があって,それは社会制度を作る人たち(あるいは「脳」のなかでそういう繊細な処理を担当する部分)にやってもらうしかないのだけれど,そういう前提に立てば,「殺し合い or 壁破壊」という選択肢になって,あとは思想の問題で,殺し合いか innovation かを選択すればいいんじゃないかと思う。


そういうわけだから今回の UK leave は「殺し合い」の側への投票だったのだと思う。,彼は思考の速が高いのでどういう考えなのかは読み取れないのだけれど,少なくとも結論は一致していて,殺し合いまでの「時計の針」は進みましたね,ということになる。

もちろんそれが民主主義の結論ならば,それは「巨大な脳」の(現状における)最善の判断だった,ということで,そしてもちろんその原因は,「脳のなかでそういう繊細な処理を担当する部分」が十分に繊細な処理をこなせなかった,ということなのだろうけれども,現実として時計の針が進んでしまったわけなので,さてじゃあ僕は何をするのかな,ということになる。


これを Twitter で端的に「カネ vs 知識 vs 武力の三つどもえ」と書いた。

なにより残念なのは,今回の leave の原因は(僕が考える限りでは)「カネの壁にも知識の壁にも守られていないために国境の壁が破壊されると困る人たち」なのだけれど,そういう人たちこそが「殺し合い」の場で真っ先に殺されるわけで,将来の自分を消費することによって現状を回復させようとする運動なんだろうなあ,という感になる。高齢者は「将来」がないから leave に投票しがち,みたいなことは言えるけれども,しかしそれら高齢者には子孫という「将来」があるわけで,「連結された脳」の観点から,そういう議論は展開しないことにする。

「殺し合い」になって困るのは,まだ壁を築けていない人たち,つまり若かったり,お金がなかったり,知識がなかったりする人たちで,そういう人たちにとっては生きづらい世の中になりそうだな,という気がする。とまで書いたところで自分の周りにある「壁」を見ると……。




それとももしかしたら leave の側の「集合知」が正しくて,brexit しても innovation は起きて「殺し合い」は回避されるかもしれないのだけれど,まあそのあたりがこのような「定性的将来予想」の限界なのですね。


これらは(先日の日記も含めて)「定性的予想」であって,さまざまな近似をしている。つまり鳥瞰図であり,とりわけ \(\Delta t \to 0\)の極限をとっているという近似は大きい,ということを付け加えておく。