みしょのねこごや

Diary - 2015年10月

三つお願い事をしてください,と言われた。願いを抱かないものであったため,しばらく考えてしまった。

帰ることのできるところであることを願う。帰って人に会う能う人であることを願う。帰らなくてよい生活であることを願う。

本当は,この記事は日本語で書いても仕方がなくて,英語で書かなければいけないのだけれど,ある人への手紙(の続き)でもあるので,このように日本語で書いています。

一年ぶりに日本を訪れて,昨日まで 3 週間弱滞在していました。仕事ではなくて,単なる観光旅行で,名古屋・京都・富士山・東京,という日本観光の golden route を辿ったのち,大分の実家に数日滞在しておりました。

会うべき人と会えるよう,会うべからざる人と会わないよう,ひっそりと訪日したので,10人ぐらいしか知らなかったはずです。


東京はやはり秩序だっていて,街の中も整然としていました。鉄道網は若干発展して,無料の wi-fi のある場所も増えて,少し便利になっていました。都心は都心になり,(ちょうど中国の秋の連休に重なったこともあって)中国人がとても多く見られ,国際都市に若干近づいたように思えました。

京都にも外国人がたくさん観光に来ていました。観光客になって初めて,京都の観光都市としての姿に気づくことができました。つまり,免税や wi-fi,多言語表記,多言語話者の店員などが充実していました。

名古屋や大分のような普通の街はそれほど変わっておらず,とはいえ大分市は大分駅の大改装によって街の景観や人の流れが大きく変化していましたが,その背後にある状況や様式は一年前のままでした。

先月 California に行ったときには,20 年後の世界 —情報技術が発達した次世代の文明— に来たような感覚におそわれましたが,日本ではそのような発展は見られず,2014 年の科学技術のままの世界でした。端末技術は進歩したのでしょうが,社会の基盤技術は —おそらく進歩を拒んでいるのでしょう— 2012 年頃とほとんど同じであるように思っています。


色々な人に会いました。親しい友達にも何人か会って,Internet の人々にも会いましたが,それよりも大事にしていたのは,ずっとそこにいる人たちと会うことでした。

僕がこのように,さまざまな街を訪れる生活を営み,数年ごとに次の国へと行く人生を送っているので,それとは対照的な「ずっとそこにいる」という生活を営んでいる人たちは,僕にとって特別な意味を持ちます。僕の支えになっているのだと思う。栄でトンカツを煮る人,北白川で豚肉を焼く人,日暮里で performance?をする人?(交信する人?),千駄木で coffee を入れる人,新宿で wine を注ぐ人,本郷で麺をゆでる人,千住で列をさばく人。僕のことを覚えている人もいれば覚えていない人もいるのですが,たとえ覚えていなくても,『そこに行けば会える』人たちがそこでいまでもそのようにあることを確認することは僕の喜びの一つであり,それによって安心して次の街へと行けるような気がしています。


僕は 1 年間(正確には 336 日) ישראל で ישראלית のように生活していたので,日本を久しぶりに訪れると,色々な違和感を覚えました。

東京の地下鉄に乗ったときに,ものすごい緊張感に襲われて,しばらく原因がわからず数日考え込んでいました。一つにはとにかく人間が多いことがあって,お互いに気を遣いつづけないとそのような中ではやっていけない。とりわけ日本人は言葉で自己主張をすることができない人間なので,満員電車から降りたいときには "Excude me" (あるいは "סליחה")と言うのではなく,無言で人を押しのけます。無言で押しのけられると倒れるおそれがあるので,人の動きを予想して,気を遣って振る舞わなければならないので,絶えず緊張感を強いられます。「日本人は物静かだ」とか「自己主張をしない」とか言われますが,単に言葉を喋ることができないだけなのでしょう。周りの人々はみんな唖者なのだ,と理解することで,その状況には適応できました。

しかし原因はそれだけではないようです。なぜなら満員電車でなくても緊張するのです。

その緊張感は,どうやら,東京の地下鉄の中がとても静かだったことによるものだという気がしています。東京の地下鉄には物静かにしていないといけないような雰囲気があり,それが緊張感につながったのだと考えています。ישראל の buses では運転手の好みの音楽がかかっているので,それがないからかな?とか考えていたのですが,本質的な最大の原因は,座席が向かい合わせになっていることだ,と,いま気づきました。いわゆる「ロングシート」であることが緊張感を生んで,車内の雑音を減らし,その無音状態がさらなる緊張感を生み出しているのでしょう。


ところが,それよりも衝撃的だったのは,日本の広告や TV 番組が,男女関係・恋愛・性愛・性的情報を中心に回っていることでした。

訪日の初日,山手線で,資生堂の『フェルゼア』という手用保湿剤の広告動画を見ました。内容は(見てもらえればわかるとおり),職場で女性社員が社内や取引先の男性に触り,それによって相手を恋に落とす,というものです。この広告を作った人は,女性が会社員として働くときには男性に触って性的快感を与えるべきである,という価値観を持っているのでしょう。このような一見明白に性差別的な広告が山手線で流れているということに,日本の男女差別がよく現れているといえます。

注1:ここで「男女差別」というのは,男尊女卑のことではありません。男性が「男性らしい」ありかたを要求され,女性が「女性らしい」ありかたを要求されることを指しています。さらに広義に,職場に性的関係が持ち込まれること,とも表現できます。僕のこれまでの職場においては,個人は個人として取り扱われていました。つまり「男」あるいは「女」であるという情報をできる限り無視した形で互いに接しなければならない,ということが当然の規範として受け入れられているように見えました。そのような「公の場」においては「私的関係」つまり「触れる」「恋に落とす」などの概念は当然に排除されるはずですが,日本の職場では排除されないようです。であれば,「男性らしい」「女性らしい」働き方が要求されるのは当然のことで,各人は,人間であるまえに男あるいは女として取り扱われ,結果として男尊女卑あるいは女尊男卑につながるのでしょう。

注2:このような広告を流すことで商品を買ってもうえると思っているのか?むしろ主要購買層である女性会社員の反感を買うだけなのでは?という疑問について友達と議論したのですが,「とにかく印象に残る CM をやってハンドミストという概念の認識向上を狙う一方,社名・商品名をできるだけ出さないようにして被害を避ける」という意図がある,という結論に至りました。

TV 番組でも,10代〜20代の「アイドル」がたくさん出てきて performance で勝負する番組や,男性芸能人が女性の好感度を得る技能を競う番組,女性の美醜を主題にした CM (比較:A / B)など,性を強く意識させるようなものが多く見られました。

このような状況は,「モテなければならない」「美しくあらなければならない」という強迫観念を若者に対して与えているのだと思います。その状況が最もよく現れているのが,東京メトロの車内で見た「美の懺悔室」という広告でした。同期から年上だと思われてた!私って,そんなに老け顔!? として,自分の顔が「老け顔」であることについて「懺悔」していました。日本においては,老け顔であることは懺悔するべきことなのです。美しくないことは,罪悪なのです。

ここで「懺悔」という言葉を使ったことが印象的です。大庭亀夫という人間が,以前から「日本語は『コピーライター語』へと退化してしまった」というようなことを述べている。例えば『五回目の3月11日への覚え書』という記事は読むべきものだと思うが,その中に 言語の真実性を軽視したまま という表現が出てくる。「懺悔」という言葉が本来持っていたはずの,神仏の前に跪いて罪の赦しを真剣に恋う姿は,日本人の意識の中から —つまり日本語から— 失われてしまった。言葉の表層のみしか認識されない,軽薄な言語になってしまった。人間の思考は言葉によってのみ行われる。したがって,日本語話者の思考はますます軽薄になっていくのだ。日本が文化を持っていないことが,この軽薄化の原因なのだと思う。日本の文化は,明治維新によって失われてしまって,もう残っていないのです。いまさら取り戻すことは,もうできないのです。

このような環境の中で生きるのは辛いだろう,と思う。とりわけ結婚していない若者にとっては地獄のようなものだと思う。電車に乗れば緊張を強いられ,さらに「美しくないのは罪だ」と非難される。車内広告の多くが「転職・借金・脱毛・結婚」についてのものだ。TV を見れば自分より若くて綺麗なアイドルやアナウンサー。美醜がネタにされる世界。田舎のほうではまだ人々が生活を営んでいるのだとおもう。それでも,TV の影響力というのは大きく,生活は東京によって徐々に汚染されていく。

そして,そこが地獄であることに僕が気づいたのは,一年間 ישראל に住んでからのことでした。僕は言葉を使うことに十分な注意を払っている,とずっと思っていたけれど,「懺悔」の本質的な意味が失われていたこと,日本語が表層のみの言葉になってしまったことに,全く気づいていなかった。広告産業や TV 業界が,性を全面に押しだし,その文脈で若者を強迫することで消費行動を煽っていることにも,明確な認識を持ってはいなかった。そのような自分の知性の限界を見知ったことが,今回の訪日における最大の驚きでした。


書きたいことを全部書いたかはわかりませんが,これくらいにしておくことにします。

最後に,昨日(正確には今日) ישראל に帰ってきたときに,「ישראל での暮らし方」を思い出すのに少し時間がかかったことも付け加えておきます。つまり,例えば駅や空港の職員は,日本ではとても親切で丁寧でいつも笑顔を浮かべていますが,この国ではぶっきらぼうで不親切で,返答も不正確です。なので,僕も不満そうな顔をして,十分な回答が得られるまで言いたいことを積極的に主張していかないといけない。それでも,その中で 1 年を過ごすと,そのようなやりとりの方が人間的なように思えてきて,仮面を被った機械のような人々よりも好きだな,と感じるのです。

(それでも,空港の駅が閉鎖されているんだったら,それを空港内で announce 放送ぐらいしてもいいとおもうんだけどなあ。そのせいで帰宅が 1 時間遅れた……。)

そして,また旅を続けています。

昨日の日記に対する mojinさんの が retweet で広まっていくのを,あきれた,悲しい,残念な気持ちで眺めている。

そこには荒涼たる美しくなさがあって,やはり英語で書けばよかったな,それでも日本語で書く必要があったのだから仕方がないな,と自分を慰めている。


彼はその後に後者,わかるー前者もよくわかるという二つの tweets をしている。これらの tweets こそが価値判断を含んだ tweets なのであって,その前の tweet は,これらを引き出すための導入にすぎない。ある日の「日記」のなかから取り出された二つの文にすぎない。

どうして価値判断の含まれない tweet が retweet されるのだろうか。

どうして長い文章の中のたった二文だけが拡散していくのだろうか。

僕の文章がその二文へと還元されてしまったのではないか。

僕の文章は全体として受け取られるのだろうか。

その二文に辿り着くためだけに読まれてしまうのではないか。

その二文を読むだけで満足してしまうのではないだろうか。

その二文が僕の文章の核心であると誤解されないだろうか。

その二文だけがまるで昆虫の標本のように結晶として標本箱に集められてしまったのではないか。

そのような標本家に餌を与えてしまったのではないか。


世の中には未だに Twitter を無自覚に使っているような人間だらけだから仕方が無いのだろう。彼に「美しくないから消して」と言おうかと思ったが,それよりもこのまま残しておいて,知覚を無くした,自分からはなにも創造し発信することのない,標本だけしか見ることのできない,そういう人間の見本市として眺めておくのがいいような気がした。

空が曇っている。dunkel. 雨季が来るのだろう。

去年 יעל が「この地にとって雨は恵みなので,雨が降るのは嬉しい」と言っていた,当時はよくわからなかったのだれど,今ではよくわかる。

昨日は久しぶりに חוף に行った。פרישייק (תות ואננס ובננה) を飲みながら שמש が沈むのを見る。この海はあいかわらず綺麗で,あいかわらず泳いでいる人がいた。

二度目の冬,חורף。

日本最終日にカラオケで歌った曲まとめ

  1. 幸せについて私が知っている5つの方法
  2. 色彩
  3. 旅の途中
  4. 花守の丘
  5. Parallel Hearts
  6. 時の向こう 幻の空
  7. Distance
  8. stone cold
  9. eternal blue
  10. 灼け落ちない翼
  11. nowhere
  12. nostalgia
  13. romanesque
  14. Kalafinaメドレー
  15. 明日の景色
  16. oblivious
  17. うつくしさ
  18. 君の銀の庭で
  19. storia
  20. Magia
  21. misterioso
  22. bravely you
  23. 東京は夜の七時
  24. Kalafinaメドレー
  25. moonfesta
  26. Lacrimosa
  27. 奈落の花
  28. Last regrets
  29. 風の辿り着く場所
  30. 鳥の詩
  31. 没落貴族のためのてーきゅう
  32. メニメニマニマニ
  33. S・M・L☆
  34. 向かい風
  35. さかさまボクとボクの部屋
  36. バーチャルスター発生学
  37. 時に愛は
  38. ユキトキ
  39. 春擬き
  40. zoetrope
  41. アゲハ蝶
  42. 時には昔の話を
  43. Tomorrow
  44. Wind Climbing
  45. 明日の景色
  46. うつくしさ
  47. bravely you
  48. 灼け落ちない翼
  49. 幸せについて私が知っている5つの方法
  50. 色彩
  51. 旅の途中

לגמאיובר

I am pretty surprized because I thought I would read your words after the Olympic (of course, in Tokyo).

Your word is, maybe since it is not an explanation but just a verbalization, or maybe I do not read that much Japanese articles, somewhat difficult to understand, and seems rather a poem to me, as usual.

It is the sentence SEALDsを支持しないという言明に至った経過を言語化しろ,というきみの仰せだが,いろいろな意味で難しい注文です。 that best attracts me, as you recognize the difficulty. Actually, for this difficulty, I asked you to write down what drive you to abandon the SEALDs activity.

Mathematically, SEALDs, or a crowd, is a set of persons. Therefore, following reductionism, or acknowledging the successful 20th-century physics, we can understand SEALDs through a person, e.g., 三浪亭.

But I would like to claim that this view is valid not because I am a particle physicst, but rather because I learned from you that the modern democracy is based on individualism; not on people, not on crowd, not on groups, but on "indivisual"s. And I understand your letter in this way.

I cannot remember why I did not feel any future —or hope— from SEALDs; actually I am rather sure that it was just for my pessimism, and I was believing that (and believe that) the future could not be changed any more by anyone. However, I remember that I clearly stated I would trust and support them when their acts were supported not only by students or 主婦 but also by サラリーマン ("賃金生活者" is a cool Japanese!). But you stop viewing them before the day comes, and now I have no interests in them because these days I see Japanese politics only through you (and for now it would be enough).

Now, as I asked you to verbalize your thought, I also try to do; for me, the reason might be they are SEALDs, they are called SEALDs, they are labelled SEALDs, and they are categorized SEALDs, and the categorization as the Japanese' habit is actually what prevents democracy in Japan. Once a person there recognizes they are a member of SEALDs, it is no longer a democracy in, I guess, your sense.