みしょのねこごや

Diary - 2016年02月

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02月12日

結婚は人民統治の一手段である

ベッキーも議員もすなる不倫といふものを,みしょもしてみむとしてしたいと思っていたのだけれど,日本では不倫のほうが収賄よりも重罪だということなので厳しいなという感を感じている。(さすがに清原もタシロもすなる覚醒剤やタバコは依存性が強すぎるので避けている。大麻には興味がある。)

そうなると,不倫がなぜそのような重罪なのか,と考えることになる。つまり,当事者間の問題であるはずの不倫に対して,なぜ社会的な非難が起こるのか,という疑問である。

せっかく ישראל に来ているので,聖典の記述を見てみると,旧約聖書(というか正確には תנ״ך) あるいはユダヤ教においては既婚の男が未婚の女と不倫することは禁止されていない。一方,قرآن ではそもそも婚姻外性交を厳格に禁止している。新約聖書では不倫の定義が旧約聖書より拡大され,既婚人と未婚人との性交が「罪」である,となっている。日本社会の価値観はキリスト教のものに近い。それでも,キリスト教上の sin は刑罰を伴うものではないので,たとえばベッキーや宮崎議員が社会的批判を受ける理由を宗教で説明しようと思えば,إسلام に基づかなければ説明できない。

したがって,不倫というのは世俗的理由により否定され,すなわち結婚制度というのは世俗的な理由によって推奨されているということになる。以下簡単のため日本に限って考えることにするが,結婚制度によって男女を永久的に束縛することが社会的利益となり,ベッキーや宮崎議員はその利益を滅失させたから批判されている,という構造なのだろう。(そしてその不利益は収賄による不利益よりも重篤である。)

ところで結婚制度によって得られる社会的利益とは何か。明治民法においては人民統治・社会安定の一手段として家制度が用いられていたので社会的利益は明白であったが,家制度が解体され,結婚が両性の合意のみに基づくものだとされてからは,それほど単純な話ではなくなった。

一つの理由として,結婚制度によって子の父親が確定する,ということがあった。もちろんこの利益は明治民法でも意識されており,そのための再婚禁止期間だった。「誰の子だかわからない子供」の存在が社会を不安定化させることは当然に想像できる。しかしその根拠は,DNA 鑑定技術の進歩によってすでに時代遅れとなった。法律を整備して,DNA 鑑定の技術を利用して実父を確定させたり,実父母から実子への養育費の支払いを義務化したりすることは現在の技術で可能であろう。科学技術によって「不倫の自由」を保証すること,あるいは厳密に言えば「不倫の自由」を「離婚の自由」と同程度に制約されたものとして保証することは可能になると考えている。


次に考えることは,以上のようなことを全て忘れた上で,そしてさらに結婚制度を統治者からの束縛条件であると理解して受容した上で,個人としてその制度をどうやって有効に利用することができるか,ということだ。

結婚(以下の議論は一部あるいは全部について事実婚に対しても適用可能だろう)の最大の特色は,それが永久的な束縛であるという点だ。つまり自分の人生を相手の人生と一体化させる,自分の将来の半分を相手に与えて相手の人生の半分を受け入れる,というものだと理解することができる。

女性の社会進出があまり進んでいなかった前時代であれば,女性側の人生というのはかなりの程度予見することができた。つまり「専業主婦」として家事と子育てをし続けるというものだ。あるいは前時代においては,終身雇用制度が確立していたため,男性側の人生もかなりの程度予見することができた。したがって,人生を一体化させることの危険性は希薄であった。だから恋愛の延長線上に結婚を置くことが可能であったし,そういう恋愛感情がない状態で結婚してもなんとかなった。誰とでもいいから結婚すれば,社会の側からの承認を受けることができた。

現在ではそういう「人生の予見可能性」がかなり失われてしまったため,愛などの一時的感情に基づいて終身契約を行うことは人生の上で大きな危険を伴う行為であるように見える。結婚のためには,愛よりもむしろ,共同事業者として適切かどうか,という点が重要であるように見える。つまり,永久的に共同で家計を営むと仮定したときに自分の(あるいは二人の)期待利益が増加するかどうか,という点を意識すべきなのだろう。

一方で世間(社会)の側は,結婚制度によって利益を得ているわけであるから,そういう個人の利益/危険を無視し,とにかく個人に対して(なんでもいいから)結婚することを推奨する。結婚は世間によって過度に美化されるし,人生の checkpoint であり恋愛の最終到達地点であるかのように錯覚させられている。


というようなことを考えていると,不倫を当事者関係の外部から批判することや,他人の結婚を祝福することは,世間の側からものごとを見ているように,つまり全体主義的であるように感じられてくる。と書くとなんとなく変な気がするのだけれど,少なくとも結婚を「快適な人生を実現するための一手段」と理解するべきである,ということは確かだと思う。結婚は転職と似たようなものだとして取り扱うのがよさそうだ。

02月29日

せっかくの閏日なので日記更新しておきます。書きとめないと何も生まれない!!

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