40 歳になった(3 日前に)。
正月生まれの運命(さだめ)として,誕生日だからといって特に目標を定めることもなく(だいたい新年にやってるから),派手に祝うこともない(だいたい新年にやってるから)のだけれど,最近は新年だからといって何か特別なことがあるわけでもない地域に住んでいるので,新年も誕生日も気にしないようになってしまった。とはいえ今年は秋学期が少し早めに終わったので既に「冬休み」に突入しており,「冬休み」らしい日々を過ごしている。
人生は十進法では進まないので,40 歳になった実感もない。健康に気を遣うような理由もないし,体力の衰えも感じていない(というかずっと衰えたままである)。あるいは,体は順調に衰えているけれども気分の浮き沈みの影響のほうが大きく,年齢は近似的に無視できるのかもしれない。
臺灣に来て 3 年になろうとしている(5 日後に)。
そっちのほうが感慨深い,というのも,ちょうど博士課程の 3 年間,あるいは ישראל での 3 年間とちょうど同じだけの期間が過ぎたことになるはずだから。そして「はず」なのだけれどそんな実感が全く存在しないから。3 年が,信じられないくらいあっという間に過ぎてしまった。1.5 年の間違いだった,と言われても何も不思議ではない,すなわち,臺灣に来てから,時間が 2 倍の速さで進んでいるような気がする。
時間があっという間に過ぎた,というのが良いことなのか悪いことなのかわからない。講義と学生指導に日々格闘しているうちに過ぎた,と言えば聞こえが良いし,それが歳を取るということなのかもしれない。変化の多い日々を送るだけの気力がなくなり,単調な日々を過ごすようになってしまった,という解釈もできるが,それは業務に注力したことの裏返しなのか,老化のせいなのか,単なる怠惰なのか。全部なんじゃないか,という気もする。
そもそも自分では自分のことを怠惰な人間だと思っている。ここではその是非が問題である。20 代の初めに「正式に」鬱になってからは怠惰な人間だと思える程度に生きようと心がけており,それでそれなりに生きているんだから良いじゃないか,という気もする。一方で,周りの人々は「精力的に」あるいは「ちゃんと」生きているように見えて,もう少し「ちゃんと」生きたほうがいいのではないか,という気もする。後者の議論には,「周囲の人々」というのが大学入学以後の 20 年間に出会った所謂異常者たちであるという瑕疵,および「ちゃんと」というのが ill-defined であるという瑕疵があるわけだけれど,それはまあ適切な定義および局所化が為されていることにすればよい。さらに言えば,最近は余生を送っているわけなのだから,ちゃんと生きなくてもいいのではないかという説まである。生存していることそのものが怠惰たる惰性の帰結と言われればそうだし,十分に「ちゃんと」していると言われればそれもまたそうなのだろう。
とりあえずは,一つの個人的な区切りの時期であり,そしてそれ故にこういう重要なのかどうでもいいのかすらわからないことを考えている,としてお茶を濁すことにする。
ところで,人類知性における区切りを感じたり,あるいは社会秩序における区切りを感じたりしているのも,個人的な区切りである故なのか。それとも 2025 は 1945 や 1990 と併置されるような数になるのだろうか。