みしょのねこごや

みしょからの緊急のお願い

全員に×をお願いします

最高裁判所裁判官の国民審査では全員に×をつけるようお願いします。


なぜか。最大の理由は,国民審査が不公正な方法で行われているからです。

最も公正であるべき裁判官が,不公正な方法で審査されているのが問題なのは明らかです。そして,それを自ら正そうとしない裁判官に公正な裁判が運営できるはずがありません。

不公正な国民審査は,三権分立の基盤を破壊します。国民審査の方法は法律によって定められていますから,国会が不公正な審査を容認しているわけです。一票の格差問題(違憲立法審査権の形骸化)は,国会と裁判所の癒着の結果です。

三権分立の機能不全

では,なぜ全員に×をつけるという方法をとるのか

我々のとれる方法は 3 つあります。上図にあるとおり,選挙・国民審査・世論です。そしてその中で最も低コストなのが,国民審査を通じて NO を表明することなのです。

理論的には,この不公正さは国会に責任があるので,選挙の争点にして争うべきです。ところが,選挙の争点とすべきことは他にもたくさんあります。原発・TPP・消費増税などの多様な争点がある今回の衆院選で,さらに話題を追加するのは,得策ではありません。

世論を通じて NO を表明するのは有効です。しかしそのためには,この問題をみんなにもっと知らせる必要があります。×が増えて不信任率が増加することで,みんなの意識を高めることができるのです。

世論を高めるためには,不信任率を増やして,この問題をマスメディアなどの話題に乗せるのが,もっとも効果的だ。みしょはそう考えます。


以上のような理由で,全員に×をつけることを強くお願いします。所定の欄に×を書く,という以外のすべての行為をすると,その用紙全体が無効となりますので,ご注意ください。


追記(1)

この内容を書いた後で,ある友人から以下のようなコメントをもらいました。

この運動は,不信任率をあげることによって世論を動かすことが目的で,判事を罷免にすることが目的ではないと見えます。それは,正道ではないにしても,まぁ良いことと言える,と思います。

しかし,もし将来こういう運動で判事が一斉罷免になれば,それはとても危険なことであるということ,もしお考えでなければ一応心に留めておいて頂きたいなと思います。

この意見,至極もっともなものです。社会を学問の対象として客観的に見るのであれば,これで正解です。

しかし我々は(同時に)日本社会のプレイヤーです。学者としての見方と,プレイヤーとしての見方を持たなければなりません。現在の日本社会では,自分がプレイヤーであることを忘れて,単なる傍観者として社会を客観視することが流行しています。前者の見方だけが幅をきかせているのです。主体的な民主主義への参加が為されないのもこのためだと考えます。

その 2 つのバランスをとって考えるならば,判事をとりあえず全員罷免する風潮ができかけたときに,逆の動きをすればよいだけの話だと考えます。いまから仮定の話をするのは,やや客観に偏りすぎているとの批判を免れません。


また,全員に×をつけるもう 1 つの理由があります。それは,既に述べていますが,最高裁裁判官自体が,この不公正な制度を認容しているからです。この制度を問題視しない裁判官は罷免相当である,という考えは,やや極端ですが,不適当では無いと考えます。


追記(2)

ところで,どうして国民審査がこのような制度で行われているのでしょうか?それは「司法の独立性」が関連しているのではないか,と,みしょは考えます。また,この制度が出来たのは太平洋戦争直後である,という点も重要です。

仮に,国民審査が,信任ならば○,不信任ならば×を書き,それ以外なら無効票とした上で,不信任が信任を上回れば罷免,という制度だったとしましょう。これはとても「公正」です。ところが,この場合,世論が直接司法に介入することになります。その結果,裁判所と国会が「世論」のもとに連合することになります。これは,世論が軍部の専横を容認し,その結果として太平洋戦争へと突き進んだ歴史を考えれば,到底許容できない話です。

成熟した民主主義であれば,おそらくこのような状況は回避できるでしょう。しかし,太平洋戦争直後の段階では,このような制度は絶対に採用できない。当時は現行制度の方が適切だったのです。

しかし,その「不公平だけど安全」な制度は,国民審査の形骸化をもたらしました。安全であることは重要ですが,機能不全ではいけません。そろそろ,民主主義が成熟したと認めて,実効性のある制度へ切り替えるべきだ。みしょはそう考えます。