みしょのねこごや

Diary - 2015年12月

@gamayauber01さんから よく,判りました。判ったから,これ以上はなしかけないでくれるか。 という e-mail が届いたので,次のような返事を送りました。各位よろしくおねがいします。

OF COURSE NOT, AND YOU *MUST NOT* TALK TO ME.

YOU ONCE WROTE TO ME AND I AS A VERY MATURED PERSON HAD NOT TALKED TO YOU,

BUT YOU *THEN* WROTE , WHICH CONFUSED AND DISGUSTED ME.

I THEN SAW THAT YOU ARE NOT TALKING TO ME BUT TO YOUR SLAVES.


Note added: "servants" might be suitable instead of "slaves", which sounds too radical. Anyway it means something opposite to "master."

過去の話を top page に載せておくのは野暮ったいので未来の話をしましょう。

というわけで,2015年12月15日の朝から21日の午前中にかけて日本国に滞在しますので,各位よろしくおねがいします。

(とはいえ 7 日しか居ないのですでに予定が埋まりつつある)

今回の1週間の滞在で強く感じたのは,「日本のサービス」の質の低下(あるいは正確に言えばそれらが失われつつあるということ)だった。ここに書いてももうどうしようもないことなのなので,備忘のための最低限の簡潔で書くことにする。具体例は省くが,それらを特に強く感じたのは,hotel の受付や空港の baggage drop でのことだった。

「日本のサービス」というのは,多くの日本人が認識している通りのものであるので説明は省く。焦点は,それらを実行することが原理的に不可能になっていることです。

原因はもちろん従業員が少ないということで,さらにその原因を突き詰めてみると,従業員への賃金が十分に払えないということなのだろう。背後には円貨の価値の低下だったり,日本企業の競争力不足だったり,といった,よく知られている話があることが推測できるし,あるいは少子化に伴う消費人口の減少を挙げてもいいのかもしれない。いずれにせよ,もうどうしようもないことです。

様々な「大きな要因」によって,企業が労働者に払える賃金が減った。その結果,労働者の数(受付の係員の数)が不十分であり,あるいは賃金が低い。低賃金であれば,あるいは過剰労働であれば,意欲が低下し,それは労働の質の低下を招く。「日本のサービス」はこうして失われた。円安に伴う「爆買い」の流行も,もちろん原因の一つだろうけれど,爆買いが収まるだけで状況が改善するとは思わない。鎖国でもすれば状況は変わるのだろうけれど,爆買いというのは globalization に伴う必然であるので,(その他諸々のことを併せて考えて)「Globalization の進展に日本の第三次産業が乗り遅れた」という点を挙げる方が良いと考えている。あるいはそれですべて説明できるかもしれない。

ただし例外がふたつあって,一つは「機械になれば良い職種」,具体的には convenience stores や fast food stores。手順のあらかじめ定められた労働であるこれらは,意欲が一切なくても routine に従いさえすれば,思考なしで高質のサービスが供給できる。もう一つは公共部問で,これは手順があらかじめ定められているという点もあるが,それ以上に十分な労働力が供給されており労働意欲が高いのだろう。ただし,ここで「では公務員の給料を下げるべきだ」という,日本人の議論によく見られる主張をすべきではない。彼らの仕事は本当に優れていて,非常に複雑な手続きを,全く負担を感じることなく,僕の想定よりも遥かに短い時間で,処理することができた。つまり事務手続きにおいて僕よりも優秀であった。これが失われると,日本社会は全く回らなくなって国民生活は混乱に陥るだろう,というか僕が困る。


ここで ישראל と日本とを比べてみることにすると,ישאאל では「日本のサービス」は一切見られない。公共部門はそれでもしっかりしているけれど,そうでない部分はとにかく雑である。その代わりに人間性があって,「人間によるサービス」を受けることができる。人間なので間違えるし,機嫌の悪い時は荒っぽくなるし,ちゃんと交渉したり要求したりしないと何もまともに行われないのだけれど,そのかわりに人間として労働することができる


これまで僕は,日本は「滅私労働するかわりに,何の心配もせずに快適なサービスを受けられる」という状況で,ישראל では「人間として労働するけれども,ちゃんとしたサービスを受けるためにはそれなりに配慮や苦労をしなければならない」という状況なのだろうと思っていた。どちらにもそれぞれの良さがあるし,僕はそういう「信頼できる日本人」が好きだった。のだけれど,もしも日本がこれから「滅私労働するけれども,ちゃんとしたサービスを受けるためにはそれなりに配慮や苦労をしなければならない」という方向に向かっていくのであれば,それは明らかに最悪だ。かといって今から「人間らしい労働を許容する」という方向に向かえるとは考えられない。今回の(たった146時間の)滞在で,その最悪へと向かう兆候を感じたので,ここに書き残しておこうと思った。


CDG に piano が置いてあったので,待ち時間の間に色々弾いた。「パリは燃えているか」を Paris で弾くのは趣がある(でも周りの人は誰も知らないw)。大勢の人の前で弾くのは 5 年くらいぶりなので相当緊張した。難しめの曲をちゃんと弾けるようになるのと同時に,技術的には簡単だけれど表現の重要な曲を弾けるように維持しておくのも大事っぽいなと感じた。

(そういえば友達と,儀式と dance と円運動による上昇と trance の話をした。加古/Ivo の動画,どこかにないだろうか。