みしょのねこごや

Diary - 2013年11月

慶應義塾大学 SFC Open Research Forum "創の bazaar" に寄せて

あまりにも良い話だったので書き残しておくことにする。

きっかけは今日もやまあるさんだった。

すでにかなり良い話であるが,この状況下でやるべきことは他にない。

即ち

この状況下でまずは "ALL" 検索で表示させることに成功する。次に狙うは "TOP" である。そのためには,その tweet の重要性を高めなければいけない。色々な方法を模索した。Hashtag を付けたり,URL を付けたりした。作戦は功を奏した。

作戦が功を奏した図。ORF 公式 web にみしょ tweet が表示されている。

ちなみに同時期に(元凶であるところの)やまあるさんも類似の投稿をしているが,こちらは失敗に終わっている。この辺りからみしょの徳の高さを窺い知ることが出来る。

さて,これでめでたしめでたし,のはずであったが,事態は突然思わぬ方向に展開する。検索 query が『みしょ対応』されたのだ。

旧query
#orf2013+OR+ORF+SFC+-逮捕+-松原研+-松原+-准教授+-"matsubara-labo"+-"headlines.yahoo.co.jp"+-条例違反+-容疑
新query
#orf2013+OR+ORF+SFC+-逮捕+-松原研+-松原+-准教授+-"matsubara-labo"+-"headlines.yahoo.co.jp"+-条例違反+-容疑+-じゅんきょうじゅ+-Matsubara

もちろん,この変更は,先述のみしょの tweet を排除するためである。ORF の website を管理している人たちの努力が伝わってきて,穏やかな気持ちになることができる。

そういうわけなのでこちらも少々ひねりを加える。

いい話である。

この発言が再び ORF の website 上に載ったのかは定かではないが,その後のやまあるさん(元凶)の 2 つの tweet がとても趣深いものだったので,僕はもうそれだけで十分なのです。

慶應 SFC の open research forum というのは手作りの良さが伝わってくる暖かな催しだなぁ,と感じました。めでたい。


分析

ものごとを "open" にしようと思えば,とりわけ Internet 上では情報の control が出来なくなる。むしろ Internet の存在により,すべてのものが "open" になりつつある。だから,不都合な情報が飛び込んでくることは避けられない。このような時代を生き抜くには,いわゆる『煽り耐性』,すなわち少々こまったことが起きても動じない強い心というものが重要になってくると考えている。「不都合な情報」を見たとしてもほとんどの人間はその情報を重視しないし,ゆえに炎上なんてそうカンタンに起こらない。これからの情報化監視社会を生き抜くために,心を鍛えて防御力を高めておく必要がある。

祖父のこと

せっかく臺灣に来ているのだから,祖父のことについて書く。母方の祖父は,山森貢という。


一度 Internet に流した情報は,もう取り消すことが出来ない。いろいろな情報流出事件を経て明らかになったことだ。逆に言うと,一度 Internet に流してしまえばその情報はどこかに保存される。すなわち,一度も Internet に流れていない情報は存在していないことになる。Internet は情報倉庫として図書館と補完関係にある。


彼は数十年前に死んだ。僕は彼のことをほとんど知らない。彼は日本統治時代の臺灣に住んでいたらしい。愛知県の西部,近鉄で行くあたりの出身であり,臺灣で小学校教員をやっていたらしい。太平洋戦争敗戦で引き揚げて,それから何故か佐伯に来て祖母と結婚して,今から四十年以上前に死んだらしい。

せっかく臺灣に来ているのだから,いろいろ調べてみた。結果を書き残しておくことにする。


臺灣での初等教育の実態についての予備知識が必要なので最初にまとめておく。1941年の國民學校令により,すべてが『國民學校』となる以前,臺灣には日本語話者向けの『小學校』と,非日本語話者向けの『公學校』があった。実質的には日本から来た人が小學校,臺灣にいた人が公學校に通った。

台中市の清水區には,清水小學校(清水尋常高等小學校)と清水公學校があった。1935年頃まではどちらも今の元富証券のあたりにあった。清水公學校は1935年に今の清水國民小學の場所に移転され,1941年に清水南國民學校となり,現在も清水國民小學として残っている。一方,清水小學校の方は清水國民學校と改名されたが,(当然ながら)小規模な学校であったこともあり(当然ながら)敗戦後に消滅したものと推測される。

太古の地図が見つかったので,あとでここに載せようと思う。


祖父は1939年に台湾総督府台北師範学校公學師範部演習科(現在の國立臺北教育大學)を卒業した。1939年から清水公學校で勤務,その後転勤して1941年から清水國民學校で働いたということが,台湾総督府の資料に記されていた。


台北から3時間かけて,清水國民小學に行ってきた。正門には当時のままの石碑『誠』と,当時は小さかった大樹があった。校庭を囲むように U 字型に建てられた校舎は,煉瓦造りに檜の天井ととても頑丈そうで,瓦葺きの頑丈そうな屋根は古蹟に指定されているらしい。当時のままのその校舎は,今も1年生・2年生が使用していた。幼稚園の職員の方にお茶をいただいて,中国語と iPad を駆使して歓談した。がんばった。

そのあと当時の小學校があった場所を見てきた。商店街になっていた。

臺灣について,あまりにも無知であった。

無知であることを知るのは難しい。大抵,無知に気づくのは知の後である。知って初めて,知らなかったことを知る。

臺灣についての無知に気づいたのも,つい昨日のこと,臺灣について少しだけ知った時のことだった。大戦中に日本が植民地にしていたことは知っていた。その前に清朝に支配されていたこと,その後に大陸からやってきた國民党により支配されたこと,現在では民主主義になっていること,だけしか知らなかった。


昨年の夏,臺灣の日月潭というところで行われた研究会に参加してきた。日本人が『日月潭』を知らないのは,今でも不思議な話である。臺灣島の中心付近に,日潭と月潭という 2 つの湖があった。湖に住む微生物が異なっていたため,一方は赤,一方は青,という見事な陰陽を呈していたと聞く。日本は植民地時代,その地に巨大な水力発電所を作った。その建設において日潭・月潭の水位を上げたため,当地の原住民族は転居を余儀なくされ,また湖は一つの『日月潭』になった。そしてその巨大な発電所は,紆余曲折はあったけれども,臺灣の経済発展にそれなりに役立った。

この歴史的事実 —日本人の偉業であり一方で植民地政策の象徴である— を知ったのは,帰国後だった。


更に重要な『無知』は,白色恐怖政治についてのことである。日本の植民地支配から解放されたあと,大陸からやってきた國民党の蔣介石がひどいことをした。だから臺灣の人は,それらを比較して,日本人に少しく親しみを感じている。そういうことはぼんやりと知っていた。

しかし「ぼんやりと知っている」は「全く知らない」と同値である。具体的に何が起きたのかを知らないことには,その知識を元にして思考することができない。そういったところに無自覚であった。(しかしやはりその無自覚は必然なのである。知というものは,その知に基づいた思考が行われて初めて知として位置づけられる。知か無知かが不可知なのかと全く同じ問題である。)

日本の植民地政策により臺灣にいた人間は『皇民化』された。それ以前からの文化・伝統は,特に言葉を奪われたことによって,弱体化した。日本の統治がそれほど長く続かなかったため,日本時代の文化・伝統などというものも確立しなかったであろう。特筆しておきたいのは,植民地の常として思想が弱体化させられた(であろう)ことである。注記しておくと,この辺りからの議論には一般論からの推測が多く含まれている。そのため,臺灣における歴史的事実・実態からはかけ離れている可能性がある。

その後,臺灣は蔣介石(中國國民党)によって統治されることになった。臺灣人は日本の思想を与えられていたが,日本の敗北によってそれは失われ,思想の空白状態が生じた。一方で漢民族というのは中華思想という強い思想を持っている。結果として,臺灣人は蔣介石に破れ,彼による独裁統治(白色恐怖)が始まった。

もちろん思想を持っている人はいたが,そういう人間は殺される。思想を持たない人間は支配可能なので生かされて支配される。そうすると,対抗するには全ての人間が思想を持つしかない。Élite が思想を持っていても,élite が殺されておしまい。全ての人が民主主義の思想を持っていて初めて,独裁権力に対抗できるのだろう。

日本にはそういう自発的な民主主義の思想が広まっているのだろうか。数十年後にもし中国が U.S.A. を圧倒して日本に攻め込んできたら,臺灣のようになってしまうことを防ぐことはできるのだろうか。そういったことを考えた。結論は,negative である。(特に 3 年前の時点では明確に no であった。)


その後,日本は幸運にも U.S.A. に統治され,とりあえず民主主義のようなものを与えられ,その思想に導かれて経済発展を遂げた。一方で,臺灣と中国の未来は失われた。臺灣が世界経済に復帰するまでに 30 年がかかり,中国の場合は 50 年が失われた。


ところで今回の滞在で気づいたのは,日本の電化製品をほとんど見なくなったことだ。家電も PC も tablet も携帯電話も,Apple・SAMSUNG・LG 電子の製品ばかりだった。もうだれもウォークマンなんて使っていなかった。

一方で,日本の「コンテンツ」は至るところで見られた。宿では 80 種類ほどの TV channels を選ぶことができたが,その中には,日本のアダルトビデオをずっと流している channel と,日本のアニメをずっと流しているチャンネルがあった。特急列車で隣に座った人は,iPad mini でアウトブレイク・カンパニーの最新話を見ていた。僕がまだ見ていないのに。日本での放映から 57 時間後に,臺灣語の字幕付きで。(ちなみに彼は英語も日本語も喋れなかった。)臺北駅の地下では,最新式の音ゲーをやっている人たちがいた。めちゃくちゃ上手だった。日本語の曲が流れていた。(どうやら maimai というやつらしい。)となりではみんな jubeat に夢中だった。僕も日本人の誇りを見せつけたかったが,最近 jubeat ほとんどやってなくてすっかり忘れてしまっているのでやめといた。つらたん。